自覚・覚他・覚行窮満
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じかく・かくた・かくぎょうぐうまん
真理を自らさとり(自覚)、他をさとらせ(覚他)、すべて満足している者(覚行窮満)の意。自覚で凡夫と区別し、覚他で二乗と区別し、覚行窮満で菩薩と区別する。(玄義分 P.301)
自覚 じかく
近年、浄土真宗の信心を、自覚(自意識)[1]という言葉で表現する僧俗が多い。 そもそも自覚という語は、自ら迷いを断って覚(さと)りを開くことを意味する仏教語であり、善導大師は、
と、自ら真理をさとり(自覚)、他をさとらせ(覚他)、自覚と覚他のすべて満足している者(
しかし、世間で使われている自覚とは、 自己自身の置かれている状態や自分の価値を知るという自己認識の意味で使われているので、浄土真宗の他力の信心の表現として濫用すべきではない。もし自覚という語を使うなら仏教語としての意味と世俗語での意味の違いを示して使用すべきである。
善導大師は浄土教に於ける信心を「信知」という言葉で示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。
以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。
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- ↑ 『日本大百科全書』の自覚の解説から引用:
自分自身のあり方を反省し、自分が何であるかを明瞭(めいりょう)に意識にもたらすこと。自己意識、自己認識、自己反省などとほぼ同義であるが、「自覚」には仏教用語の転用からくる特有のニュアンスが付きまとう。
ソクラテスが古代ギリシアの格言「汝(なんじ)自身を知れ」を自己の課題としたように、自覚は哲学にとって出発点でもあり目標でもあった。しかし自覚とは、自分が自分を知ることである以上、知る自分と知られる自分とは、区別されねばならないと同時に、同一の自分でもあり続けねばならない。ここに、自己の分裂と統一という反省にまつわるパラドックスが生ずる。
〔以下〔…〕内は林遊の追記:このような自己と他を区別することを思索の出発点とする「われ思惟す、ゆえにわれあり」という自己の存在を有(主体)とする西欧の思索の原理に対して、仏教ではその主体(有)を否定して「無我」を説くのである。浄土真宗ではそれを「捨自帰他(自らを捨て法に帰する)」という。それは知ろうとする者は、既に知られる者によって知られているという意味である。未だ言語分節によって主客が分かれる以前に自己の存在を見出す立場であった。それが第十八願の「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」という生仏一如の教説であった。その意を日本的仏教思想の文脈上で語られたのが『自然法爾のご法語』であった。〕
わが国では西田幾多郎(きたろう)が「自覚の立場」を提唱して、この困難に挑んだ。彼によれば、主客未分の知るものと知られるものとが一つである直観的意識と、それを外側から眺める反省的意識とが内的に結合され、統一された状態、それが自覚の立場にほかならない。[野家啓一] 『『自覚に於ける直観と反省』(『西田幾多郎全集 第2巻』所収・1950・岩波書店)』 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)