ぎょうしんーふり
阿弥陀仏より回向された、行(なんまんだぶ)と疑いなき信心は不離であること。
仏教が、哲学や通常の思想と最も異なる点は行の有無である。仏教は「信解行証」といい実践しなければ意味がなく、日々の生活の中で教えが実行できてこそ、仏道の真の具体的意味がある。浄土真宗では信を強調するのだが、行なき信はなく、また信なき行もないのである。この意を御開山は、
- 信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
- そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。 (消息 P.749)
と、行と信は、行信不離(ぎょうしん-ふり)であるといわれていた。
- →行信
- →大行
- →大信
- →四法
- →選択本願
- →第十七願
- →第十八願