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如来

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にょらい

 釈尊のこと。(正像 P.613)


巻末註
 梵語タターガタ(tathāgata)の漢訳。真如(真理)より現れ来った者、あるいは真如をさとられた者の意で、仏のこと。十種の称号がある(如来の十号)。

応供(おうぐ)。供養を受けるに値する者。
等正覚(とうしょうがく)。平等の真理をさとった者。
明行足(みょうぎょうそく)。智慧と行とが共に完全な者。
善逝(ぜんぜい)。迷界をよく超え出て再び迷いに還らない者。
世間解(せけんげ)。世間・出世間のことをすべて知る者。
無上士(むじょうし)。最上最高の者。
調御丈夫(じょうごじょうぶ)。衆生を調伏・制御してさとりに導く者。
天人師(てんにんし)。神々と人間の師。
⑨仏。覚れる者。
⑩世尊。世間で最も尊い方。

この十号は、如来を入れると十一号になる。それを合わせて十号と呼ぶ数え方に諸説がある。(大経 P.11)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  • 仏の十号は『涅槃経』梵行品に詳しい。 →梵行品

梵語タターガタ(tathāgata)の漢訳で、多陀阿伽度(陀)、怛薩阿竭、怛他誐他、多阿竭と音写し、如去、如来と漢訳される。如去や如来と訳されるのは、

tathā-gata 如に達した人(如去)
tathā-āgata 如から来たった人(如来)

との二種類の読み方のためである。如去(善逝)は、如に至(去:去にはその場を離れていくという意がある)った者という意で、初期仏教ではこれが本義とされる。
「如来」の語で、三世諸仏の仏を成じた仏をいうのは、大乗仏教では一切衆生を救済する大悲によって、如から娑婆世界に出世(如→来)して衆生を済度する仏であるとするからである。
御開山は『無量寿経』の「出世本懐」で、

如来無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。 (大経 P.9)

と、ある「如来」の語を一般名詞としてよみ、三世十方の諸仏如来は、「真実の利」である名号(なんまんだぶ)を群萌に説き回施するために世に出られたとみられたのである。『一念多念証文』では、この「出世本懐」文の如来を釈して「如来と申すは諸仏を申すなり」(一多 P.689) とされておられる。

いわゆる第十七願に相応した「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」の広讃(咨嗟:仏願の生起本末を咨嗟する)と略讃(称我名者:なんまんだぶを称える)である。その意味においては『無量寿経』を説かれた釈尊も諸仏中の一仏である。
『歎異抄』に、

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば…… (歎異抄 P.833)

とあるように、浄土真宗は「弥陀の本願」を始源として衆生を済度する法義であるからである。その意味で釈尊を釈尊たらしめた「さとり」を根源とした「如→来」するご法義であった。

また御開山は、以下の「和讃」のように三世十方の諸仏を統率する根本の仏が、法蔵菩薩の相をとり阿弥陀如来と顕現した仏であるとみられている場合がある。→従果還因

弥陀成仏のこのかたは
 いまに十劫とときたれど
 塵点久遠劫よりも
 ひさしき仏とみえたまふ (大経讃p.565)
南無不可思議光仏
 饒王仏のみもとにて
 十方浄土のなかよりぞ
 本願選択摂取する (同p.565)
久遠実成阿弥陀仏
 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ
 迦耶城には応現する (諸経讃p.572)

御開山がこのように領解されたのは、『論註』広略相入で、

諸仏菩薩有二種法身。一者法性法身、二者方便法身。法性法身 方便法身。方便法身 法性法身。此二法身異而不可分。一而不可同。
諸仏・菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。(論註 P.139)

とある由生・由出の「二種法身説」によられたからである。ここでは「この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず」とあるように、法性法身はすなわち方便法身であり、方便法身はそのままが法性法身である。
この意を『一念多念証文』では、

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。
これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。
この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。 (一多 P.690)

と、いわれていた。また『唯信鈔文意』の極楽涅槃界の釈でも、

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。 (唯文 P.709)

と、いわれておられる。ものすごく難解なのだが、要するに〔なんまんだぶ〕と称えることは真如一実の界がわたくしの上に如-来と顕現しているのであった。 →名体不二七祖-補註1 →親鸞聖人の仏身論
御開山は、このようなあらゆる仏陀を仏陀たらしめる誓願一仏乗の真如のさとりの界(さかい)から来生する阿弥陀仏を、

しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。(証巻 P.307)

と「如より来生」するとされておられる。御開山は、ここで衆生の弥陀同体のさとりと還相の意義をみておられるのであろう。


参考用に『智度論』から「多陀阿伽陀(如来)」についてを引用した。「大正蔵」

問曰。婆伽婆正有此一名更有餘名。

問うて曰く、婆伽婆は正に此の一名のみ有りや、更に余の名有りや。

答曰。佛功徳無量。名號亦無量。此名取其大者。以人多識故。復有異名。名多陀阿伽陀等。

答えて曰く、仏は、功徳無量なれば、名号も亦た無量なり。此の名は、其の大なる者を取る、人の多く識るを以っての故なり。復た異名有り、多陀阿伽陀等と名づく。

云何名多陀阿伽陀。如法相解如法相説。如諸佛安隱道來。佛亦如是來更不去後有中。是故名 多陀阿伽陀。

云何が、多陀阿伽陀と名づくる。法相の如く解し、法相の如く説き、諸仏の安穏の道を来たるが如く、仏も亦た是の如く来たりて、更に後有の中に去らず。是の故に多陀阿伽陀と名づく。

復名阿羅呵。云何名阿羅呵。阿羅名賊。呵名殺。是名殺賊。如偈説
 佛以忍爲鎧 精進爲剛甲
 持戒爲大馬 禪定爲良弓
 智慧爲好箭 外破魔王軍
 内滅煩惱賊 是名阿羅呵

復た阿羅呵と名づく。云何が阿羅呵と名づくる。阿羅を賊と名づけ、呵を殺と名づけて、是れを殺賊と名づく。偈に説けるが如し、
仏は忍を以って鎧と為し、精進を剛甲と為し、
持戒を大馬と為し、禅定を良弓と為し、
智慧を好箭と為して、外に魔王の軍を破り、
内に煩悩の賊を滅す、是れを阿羅呵と名づく。

復次阿名不。羅呵名生。是名不生。佛心種子後世田中不生。無明糠脱故。

復た次ぎに、阿を不と名づけ、羅呵を生を名づけ、是れを不生と名づく。仏心の種子は、後世の田中に生ぜず、無明の糠を脱するが故なり。

復次阿羅呵名應受供養。佛諸結使除盡得一切智慧故。應受一切天地衆生供養。以是故佛名阿羅呵。

復た次ぎに、阿羅呵を応に供養を受くべきと名づく。仏は、諸の結使除き尽して、一切の智慧を得たまいしが故に、応に一切の天地の衆生の供養を受くべし。是を以っての故に、仏を阿羅呵と名づく。

復名三藐三佛陀。云何名三藐三佛陀。三藐名正。三名遍。佛名知。是名正遍知一切法。

復た、三藐三仏陀と名づく。云何が、三藐三仏陀と名づくる。三藐を正と名づけ、三を遍と名づけ、仏を知と名づくるに、是れを正遍知一切法と名づく。


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