不疑心
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
不疑心 ふぎしん
不疑心とは疑わない心といふ意で、教えに対して疑わない心が私に有るといふ意味である。いわゆるキリスト教などの救済型宗教における絶対者である神の救済を確信することを不疑心(疑わずの心)といふ。信は私の心の上に造作する不疑心だといふのである。
ところで、御開山は「本願成就文」で、
然経 言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。言 信心者 則本願力廻向之信心也。
と、疑心あることなし(無有疑心)とされ本願力回向の信心とされておられた。[1]
『一念多念証文』には、
- きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。(一多 P.678)
と「疑ふこころなき」といわれておられた。
本願を疑う心が無いことを信といわれるのであった。いわば無い状態を信心といふのである。では何があるのかといえば聞いた本願の法が衆生の上にあるのである。法がわたくし(機)にあることをご信心といふのであった。
- 不疑心 〔わたしの〕疑わない心。
- 無疑心 〔わたしに〕疑う心が無い。
なお『唯信鈔文意』では、阿弥陀如来の「法」を信受した二心なき信を、
- 「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。(唯文 P.699)
と、「「信」はうたがひなきこころなり」ともいわれていた。これは阿弥陀如来が衆生を済度することについて如来に一点の疑いも無いから、そのうたがひなきこころの仏心を領受した側には「うたがひなきこころなり」であった。「すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり」とされた意である。
稲城選恵和上は、説教でこの「無疑」と「不疑」を平生業成の只今の救いとして巧みに表現されておられた。
- 他力の信の特色
親鸞聖人はね、信心のことを「無疑」と言われていますからね。「無疑」というたら、ちょっと似た言葉に「不疑」というのがあるんです。これは違うんです。
一般には、混同していますね。「不疑」いうたら、「明日は天気じゃと疑っておりません。」と言う場合ですね。明日の天気の場合じゃったら、疑っておりませんと言うね。ところが、今は雨降っとるかいね、降っとるね。この場合に、「今日雨が降っとると疑っておりません。」と言うかね。そう言う方は、手を挙げて項きましょうかい。
そういう方は、いませんね。今日は曇っとる、今日は雨が降っとるということをね、疑っておりませんという事は無いでしょうが。ですから、「不疑」と「無疑」とは、違いますね。案外、ここの所のけじめがね、はっきりされとらんのです。
そうすると、疑っておりませんと言うことは、「疑い」の形の変ったものと言えますね。やっぱり、この場合は、「今・ここ」の話じゃ無いんです。ところが、「無疑」という場合はね、「今・ここ」のことを言うんですね。わしは、「今・ここ」におるね。 そこで、この前に座っておいでの方と、こっちの九州からおいでの方とが、ひとつ言い争いをするんです。どうかというとね、一人の方は、「わしがここに居ると思うとる。」という、もう片方の方は、「わしがここに居らんと思うとる。」というてね。「おると思う」「おらんと思う」というて、言い争ってみなはれ、二人とも頭の方を見てもらわにゃならんね、病院行って。
これ、わしがここにおるということは、思うとか思わんとか論ずる必要が無いじゃろう。そういう場合に、「無疑」というんですね。ですから、疑っていませんという「不疑」とはちょっと意味が違うじゃろ。それが解らんのですからね。それですからね、「無疑」ということはね、「決定」という言葉が略されているんです。「無疑」は、「決定無疑」ということですね。
この決定ということは、どういう事か言うと、これはね、決定しておると言う事を仏教の言葉で成就と言うね。これは、決ってしもうたという咋日の話じゃない、昨日はもう済んだ後ですからね。そうかというて、これから決るという明日の話でもないんです。明日は、まだ来ておらんでしょうが。明日が決っておるというたら、どうかというと、例えばこういうんですね。
明日は御旧跡に参りますからね、出来れば行かれたらええんですよ。東京の方でも、灯台下(もと)暗しで、かえって知らん人がいますからね。減多にこういう時でもなけりゃや行けんもんですからね。親鸞聖人の御旧跡を、明日参りますね。
こういう場合はね、明日は決っておると言うんですね。ね、そういう時は、決っておる。じゃけど、明日の話です。明日はまだこれ、来ておらんでしょうが。それから、昨日じゃったら、決ってしもうたと言う。 ところが、成就というたら、明日の話でも昨日の話でもない。未来完了でも過去完了でもない。今の決定というたら、「今・ここ」にちゃんと決っておるものに面する場合でないと言えないんです。ですから、どうですか、遇うておる場合には、思うとか思わんとか論ずる必要がないでしょうが。
そうすると、南無阿弥陀仏というのはね、何時でも・何処でも・誰にでもということになるんです。 何時でもというたら、「今」という事なんですよ。今日四時から言うたら、まだ四時になっちょらんから駄目ですね。三時まで言うたら、もう駄目じゃないか。ところが、何時でもいうたら、「今」のことです。それで、何処でも言うたらね、ここまで、伊香保温泉まで来んにゃいうたらね、大阪におっても東京におっても駄目ですね。ところが、何処でも言うたら、「ここ」という事なんです。
彰順会=編 『如来をきく』(平成3年発行)より一部抜粋
- ↑ 『往生礼讃』に、
- 乃至一念無有疑心
- すなはち一念に至るまで疑心あることなし。
- 乃至一念無有疑心