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招喚したまふの勅命

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

しょうかんしたまうのちょくめい

 衆生に帰せよと命じる如来の呼び声。 (信巻 P.241)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

トーク:招喚したまふの勅命から転送。

招喚したまふの勅命

時々、念仏を、自力の念仏と他力の念仏に分けて、能動所動能所)の語に幻惑されて「私にはお念仏が出ません」という門徒がいる。便秘なら出ませんということもあろうが、なんまんだぶが口から出ないなら努力して舌を動かして〔なんまんだぶ〕と称えればいいのである。
信心正因 称名報恩」という真宗坊主の説くドグマ化された言葉に幻惑されて、信が無ければ称名をしてはいけないと誤解して、名体不二のなんまんだぶが称えられないのであろう。TPOを考慮せずになんまんだぶを称え、周囲から「くせ念仏」と揶揄されていたばあちゃんが悩んでいた。そのときに、じいさんが、たとえ癖の空念仏でも阿弥陀様が実を入れて受け取って下さるから、こっちが心配するな、と言っていたものである。
樹の枝は風がふくから動くのであり枝が動いたから風がふくのではない。自力念仏とは我が動いて大悲の風を起こそうというのであろう。大悲の風は倦むことなく常に招喚したまふの勅命としてふいているのであった。「風にふかれ信心申して居る」(尾崎放哉)という句がある。「信心申して」という表現は秀逸である。なんまんだぶと称えることは信であり、これを「称即信」というのである。
深川倫雄和上は『領解文』を釈して、

 さてこの御たすけの法を頂き、ご恩尊やと称え且つ聞いて慶ぶ所を、「このうへの称名はご恩報謝と存じ」と出言しました。ここに称名はご恩報謝というのは、称名の、即ち称えるということが報謝であるということであります。
 称えるのは私、称えられるのが号。称えようと思う心も、舌を動かし息を出す仕事も私のすることで、これはご恩報謝。称えられる名号は、如来回向の正定業であります。お六字の意味を「有り難うございます」と領解してはなりません[1]。本願に「乃至十念」とありまして、称名は信仰生活の第一です。何はともあれ、お称名をして暮らすことであります。 (平成7年「改悔批判」)

と、なんまんだぶを称えて聞きなさいよ、とのお示しであった。「」はわたくしの努力であり、「(号)」として聞えて下さるのが「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ[2]」という「本願招喚の勅命」であった。
真宗の学僧大厳師は、

罔極仏恩報謝情 (罔極[3]の仏恩報謝の情)
清晨幽夜但称名 (清晨幽夜[4]ただ称名)
堪歓吾唱雖吾聴 (歓びにたえたり、われ唱えわれ聴くといえども)
此是大悲招喚声 (これはこれ大悲招喚の声)[5]

と、なんまんだぶという自らの称える声に本願招喚の勅命を聞かれたのであった。
この漢詩の意を、原口針水和上は、より解りやすく和語にされ、

我れ称へ 我れ聞くなれど
南無阿弥陀 我をたすくる 弥陀の勅命

と、讃詠されたのであった。甲斐和理子さんは、

み仏(ほとけ)の み名を称える
わが声は わが声ながら 尊かりけり

と詠っておられたのであった。生死に呻吟している人生に「わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(欲生我国 乃至十念)」(大経 P.18) と、なんまんだぶと呼ばれて、なんまんだぶと帰る浄土があるとは、ありがたいこっちゃな。なんまんだぶ なんまんだぶ


  1. 称名報恩の報恩には、お助け下さってありがとうございますという意もないことはないのだが、ともすればgive and take の人間間の取引関係のように誤解されるからのご注意である。「安心論題/十念誓意
  2. 「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」を、第十八願の至心・信楽・欲生我国の約仏の三信に配当すれば、至心は、そのまま来いよ、信楽は、間違わさんぞ、欲生我国は、待っておるぞであろう。それが乃至十念の、なんまんだぶという声の「招喚したまふの勅命」であった。
  3. 罔極(もうきょく、もうごく)。きわまりのないこと。
  4. 清晨(せいしん)。明け方。幽夜(ゆうや)。しずかな夜。
  5. 意訳:極まりなき佛恩報謝の情(こころ)は、すがすがしい朝から静かな夜に到るまで、ただ〔なんまんだぶ〕のみである。歓びに値するにこのうえなし。私が称えて私が聞いているようだが、これぞこれ、阿弥陀仏の大悲をこめて招き喚ばれる呼び声である。