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かならず…懐いて

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

至誠心釈から転送)

かならず…いだいて

 通常は「かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と読む。(信巻 P.216)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

善導大師の訓
一切衆生身口意業所修解行、必須真実心中作。不外現賢善精進之相、内懐虚仮
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
御開山の訓
一切衆生身口意業所修解行、必須真実心中作。不外現賢善精進之相、内懐虚仮
一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須(もち)ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、

須は、すべからく…べし、といふ再読文字として訓じたり、もちいる、もとめるとも訓じる。善導大師の当面では、至誠心とは自らの真実心を意味したのであるが、御開山は阿弥陀仏の至誠心を須(もち)いることが真実心であるとされた。

この訓点の付け方は法然聖人のご教授である。→醍醐本法然上人伝記#『三心料簡および御法語』を参照

  • 御開山の読みかえ部分には破線を付した。
観経疏 教行証
至誠心釈

『経』にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。

もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

至誠心釈

『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。

また真実に二種あり。 一には自利真実、二には利他真実なり。 また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}
至誠心
かならず…得ざれ
施したまふところ趣求をなす
トーク:三心料簡および御法語
『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引