剋念して…入る
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(剋念してから転送)こくねんして…いる
Ⅰ 一心に。専心に。(三経 P.628)
Ⅱ『論註』の当分では「剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得てすなはち正定聚に入る」と読む。剋念願生する者が浄土に往生して正定聚に入る義であるが、親鸞聖人は原文を読みかえて、剋念願生する者(此土)と浄土に往生した者(彼土)との二類の正定聚があることを示された。
Ⅲ 剋念は心を専注して一心になること。ここは信心の異名。(証巻 P.309, 一多 P.681,三経 P.628)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 『論註』の当分:
- 剋念願生 亦得往生則入正定聚
- 剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得てすなはち正定聚に入る。(論註 P.119)
- 御開山の訓点:
- 剋念願生 亦 得往生 則入正定聚
- 剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る。(証巻 P.309)
御開山は、亦という字で、此土での正定聚と、彼土での正定聚が説かれているとみられた。→広門示現相
『一念多念証文』でもこの漢文を以下のように、
と、訓(よ)まれている。
現生正定聚とは「行巻」で以下の阿弥陀仏の名義を示す『往生礼讃』の文を引文され、
- 「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。(行巻 P.165)
この意を『浄土和讃』の「弥陀経讃」には、
とされておられる。この和讃の国宝本の「摂取してすてざれば」の左訓には、
- 摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。(原文は全てカナ) 左訓→摂取してすてざれば
とあり、『御消息』などでも、
- 真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。(御消息 P.735)
と、真実信心の行人(なんまんだぶを称える人)とあり、現生での正定聚説は、阿弥陀仏の摂取不捨のゆえであるとされたのであろう。それは、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、
- もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと。(十住毘婆沙論 P.6)
の示唆をうけられたものでもある。
念仏とか名号とか南无阿弥陀仏は文字であり、なんまんだぶは可聞可称の声である。御開山が「行巻」と「信巻」で重ねて『往生礼讃』に替えて、聞の字のある智昇の『集諸経礼懺儀』を引いて、
とされたのも、口に称えられ耳に聞こえる〔なんまんだぶ〕を示そうとされたのであろう。なんまんだぶと称えれば、なんまんだぶと声となって聞える。これを御開山は本願招喚の勅命といわれ摂取不捨とされ、教義では現生正定聚不退転とされたのである。智愚の毒におかされた現代人や真宗の坊さんは、これが解からんので困ったものである。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→正定聚