「行の一念」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(同じ利用者による、間の3版が非表示) | |||
2行目: | 2行目: | ||
ぎょう-の-いちねん | ぎょう-の-いちねん | ||
− | + | 念は[[称念]]の意で、一声の称名念仏のこと。親鸞は『大経』弥勒付属の文に | |
:「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん」([[大経下#no47|大経 P.81]]) | :「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん」([[大経下#no47|大経 P.81]]) | ||
と説かれている「乃至一念」を行の一念を示す文と位置づけた。この一念に二種の解釈がある。<br /> | と説かれている「乃至一念」を行の一念を示す文と位置づけた。この一念に二種の解釈がある。<br /> | ||
11行目: | 11行目: | ||
② 行相の一念。ただ念仏して他の行を並べ修さないことをいう。「行巻」には | ② 行相の一念。ただ念仏して他の行を並べ修さないことをいう。「行巻」には | ||
− | : | + | :「専念といへるはすなはち一行なり、二行なきことを<kana>形(あらわ)</kana>すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり」([[行巻#P--189|行巻 P.189]]) |
とある。(浄土真宗辞典) | とある。(浄土真宗辞典) | ||
}} | }} | ||
+ | |||
+ | 御開山は『大経』の弥勒付属の「一念」が「一声」であることは法然聖人を享けておられるのだが、以下の「散善義」の「専心専念」の文を挙げておられた。 | ||
+ | {{Inyou| | ||
+ | :釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち[[一心]]なり、二心なきことを<kana>形(あらわ)</kana>すなり。「専念」といへるはすなはち[[一行]]なり、二行なきことを<kana>形(あらわ)</kana>すなり。いま[[弥勒付属の一念]]はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ[[一行]]なり。 | ||
+ | :一行すなはちこれ[[正行]]なり。正行すなはちこれ[[正業]]なり。正業すなはちこれ[[正念]]なり。正念すなはちこれ[[念仏]]なり。すなはちこれ'''[[南無阿弥陀仏]]'''なり。([[行巻#P--189|行巻 P.189]]) | ||
+ | }} | ||
+ | |||
:→[[信の一念]] | :→[[信の一念]] | ||
:→[[行信不離]] | :→[[行信不離]] | ||
:→[[行信一念について]] | :→[[行信一念について]] | ||
+ | :→[[トーク:真実の利]] | ||
:→[[安心論題/行一念義]] | :→[[安心論題/行一念義]] | ||
[[Category:追記]] | [[Category:追記]] | ||
+ | <p id="page-top">[[#|▲]]</p> |
2024年10月27日 (日) 08:34時点における最新版
ぎょう-の-いちねん
念は称念の意で、一声の称名念仏のこと。親鸞は『大経』弥勒付属の文に
- 「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん」(大経 P.81)
と説かれている「乃至一念」を行の一念を示す文と位置づけた。この一念に二種の解釈がある。
① 遍数(へん-じゅ)の一念。名号が衆生の声となって活動する信心獲得後の最初の一声をいう。「行巻」には
- 「行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」(行巻 P.187)
とある。
② 行相の一念。ただ念仏して他の行を並べ修さないことをいう。「行巻」には
- 「専念といへるはすなはち一行なり、二行なきことを
形 すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり」(行巻 P.189)
とある。(浄土真宗辞典)
御開山は『大経』の弥勒付属の「一念」が「一声」であることは法然聖人を享けておられるのだが、以下の「散善義」の「専心専念」の文を挙げておられた。