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「常倫に…現前し」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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じょうりんに…げんぜんし
 
じょうりんに…げんぜんし
  
 通常は「常倫諸地の行を超出し、現前に」と読む。常倫はつねなみ、普通一般の意。 ([[行巻#P--193|行巻 P.193]])
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 通常は「常倫諸地の行を超出し、現前に」と読む。常倫はつねなみ、普通一般の意。 ([[行巻#P--193|行巻 P.193]]、[[証巻#P--316|証巻 P.316]])
  
 
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第二十二願の読み方には三種類有る。
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*常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。「証文類」
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*常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。「論註」
  
設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処。除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道。<br />
+
:梯實圓和上は「[[教行証文類のこころ]]」という講義の中で、[[第二十二願]]には三通りに読むことが出来るとお示しであった。この三通りの読み方について以下のように考察してみた。
超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳 若不爾者 不取正覚。
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===第二十二願の三種類の読み方===
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[[第二十二願]]の読み方には願文当分と、曇鸞大師の読み方と、それから親鸞聖人の読み方の三種類がある。なお、経典とは、さとりの世界を言語によって描くものであるが、『大智度論』に依義不依語(義によりて語によらざる)とあるように、言葉は必ずしも直ちに真理を指すものではない。経典の意図を読み解くには、さとりの智慧が必要になる。そのさとりの智慧によって新しい経典の読み方(解釈)がされるのが、祖師方の大乗仏教の智慧であった。
  
*浄土論註の訓
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===「原漢文(魏訳)」===
:常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を 取らじ
+
設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処。<br/>
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除其'''本願''' 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道。超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳 若不爾者 不取正覚。{{SH3|mark1|
 +
たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。}}
  
*本願寺派原典版の訓
+
===当面の第二十二願文の読み方===
:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。
+
第二十二願文の当面では、究極的には[[一生補処]]に至らしめる。しかし、十方の衆生を[[済度]]していこうという願い(プールヴァ・プラニダーナ(pūrva-praņidhāna 前からの願い、<kana>本(もと)</kana>の願いという意)を持つ者は、[[一生補処]]から除外して、その願いの通りに利他の大乗菩薩道を実践させてやろう、というのである。中村元氏の「浄土三部経」(岩波文庫)の『無量寿経』では、サンスクリット語と漢文を対応させて以下のように読下している。ここでは、除其本願以下の文はすべて除外例となっている。この意味において、[[第二十二願]]は[[一生補処]]と願生者 自らの衆生済度の願いを誓った願である。<br>
 +
 なお、ここでの本願の語の意味は、願生者が生前に懐いていた、<kana>本(もと)</kana>の願い(pūrva-praņidhāna)であって、阿弥陀仏の本願ではない。〔〕内は私に於いて付した。破線は除外例を示す為に付した。
  
*本願寺派註釈版の訓
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岩波文庫版(中村元氏)『無量寿経』の読み方、
:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
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{{Inyou|
原典版及び註釈版は、除其本願の除外の文のかかりが違うだけで文意は同じ。諸地の行とは一地から十地へという菩薩の階位における利他行。
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:たとひわれ仏となるをえんとき、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟して必ず一生補処に至らしめん。
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{{Inmon|
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:(ただし)その本願〔願生者のもとの願い〕、自在に化せんとするところの、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被(かぶ)り、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方のもろもろの仏・如来を供養し、恒沙の無量の衆生を開化して、無上正真の道に(安)立せしめ、常倫の(菩薩)に超出して、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんものを除く。}}
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:もししからずんば、正覚を取らじ。
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}}
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異訳の『無量寿如来会』の第二十二願は、
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:若我成仏 於彼国中 所有菩薩於大菩提 咸悉位階一生補処
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:唯除大願諸菩薩等 為諸衆生被精進甲 勤行利益修大涅槃 遍諸仏国行菩薩行 供養一切諸仏如来 安立洹沙衆生住無上覚 所修諸行復勝於前 行普賢道而得出離 若不爾者 不取菩提
 +
::もし我、成仏せんに、彼の国の中において、[[所有]]菩薩、大菩提において、みなことごとく位階[[一生補処]]ならん。ただ大願ある諸の菩薩等、諸の衆生の為に精進の甲(こうら)を被り、勤めて利益を行じ[[大涅槃]]を修して、遍く諸仏の国にして菩薩の行を行じ、一切の諸仏如来を供養して、洹沙衆生を安立し、無上覚に住し、修する所の諸行、また前に勝れて、普賢の道を行じ、しかも出離を得しめんを除く。もししからずば、菩提を取らじ。 [http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%A3%BD%E5%A6%82%E4%BE%86%E6%9C%83#.E5.8C.96.E5.B7.BB.E5.BC.95.E6.96.87.2842.29 (『無量寿如来会』の第二十二願)]
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と、「唯除大願諸菩薩等 (ただ大願ある諸の菩薩等を……除く)」以下は、浄土に往生して利他の菩薩道('''[[普賢の徳]]''')を修する除外例となっている。<br />
  
『浄土論註』の訓では、浄土は修行の環境が勝れているので、順次に菩薩の修行の段階を経るのではなく、常倫(つねなみのともがら)の修行階梯である諸地を超出する意である。娑婆世界においては、[[歴劫迂回の行]]を修して多くの劫を経て仏果に至るのであるが、浄土では常倫の菩薩の諸地(十地の階梯)の行を超出して上位の菩薩に成るというのが『浄土論註』の訓の意であろう。(七祖p.133) 「この経を案じてかの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来の、閻浮提における一の応化道なるのみ。他方の浄土はなんぞかならずしもかくのごとくならん。五種の不思議のなかに仏法もつとも不可思議なり。」(七祖p.134)とされる所以である。『浄土論註』の結論である「三願的証」において、第十八願、第十一願に続いて、第二十二願を重ねて引かれるのもその意である。<br />
+
===『浄土論註』での読み方===
ところが、親鸞聖人は、第二十二願を還相を誓われた願とし、往生と同時に常倫に超出して諸地の行(普賢の徳)が娑婆世界で現前する、という還相の相であると見られた。往生浄土の徳として諸地の行が現前するのである。これがまさに『無量寿経』の「皆遵普賢大士之徳(みな普賢大士の徳に遵へり)」p.4  という普賢菩薩の慈悲行を実践することであるとされた。法蔵菩薩の菩提心(本願)に感動し、その菩提心に包まれて浄土へ往生する者には、智慧の必然としての大悲を行ずる利他行も用意されているというのである。<br />
+
「浄土論註」では、超出常倫の前までが除外例であるとして、以下のように読んでいる。
以下の「讃阿弥陀仏偈和讃」の普賢の徳の左訓には、「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲をまうすなり」とある。
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{{Inyou|
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:「たとひわれ仏を得んに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。
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{{Inmon|
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:その本願〔願生者のもとの願い〕の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道に立せしめんをば除く。}}
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:常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。
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:もししからずは、正覚を取らじ。([[浄土論註 (七祖)#P--133]])
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}}
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曇鸞大師は、何ゆえに浄土へ往生した[[未証浄心の菩薩]]が、多くの劫数を経るべき時を飛び越えて八地(十地) 以上の菩薩に成りえるのか、という問に答えるために[[第二十二願]]を出された。「超出常倫」の句の前までが除外例であると読み、最初の「除其本願 自在所化」文と「正真之道」までの文を結びつけ除外例とした。<br>
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そして、浄土は修行の環境が勝れているので、娑婆のように順次に菩薩の修行の階梯を経るのではなく、常倫(つねなみのともがら)の修行階梯である諸地を超出する意として「常倫の諸地の行を超出」とあるから即等に八地以上の菩薩になり、普賢の徳を修習して[[一生補処]]に至るのだとした。曇鸞大師は[[第二十二願]]は、浄土での速やかな菩薩の階位の向上を誓った願であり、[[一生補処]]への階梯を誓った願であるとみられていたのである ([[浄土論註_(七祖)#P--133|*]])。 <br>
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曇鸞大師は、ここでは第二十二願を、還相を誓った願だとはみておられない。この速やかに菩薩の階梯を経ることを各種の譬喩をあげて説明し「非常の言は常人の耳に入らず」と結論されている。<br>
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なお、ここでも「その本願」の本願(pūrva-praņidhāna)とは、願生者の本の願いという意味である。ただ、この後での「[[覈本釈]]」で、[[第二十二願]]の意味と様相が変わると見られたのが御開山であった。 →[[トーク:他力]]
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===御開山の読み方(証文類)===
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『論註』では、
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:常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。
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と、浄土に往生すれば娑婆で説かれるような常倫諸地の行を飛び越えて普賢の徳を修習するとした。<br />
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御開山は、
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:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。
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と、常倫(常なみのともがら) のような通常の菩薩ではなく「還相の菩薩」としての[[諸地の行]]を現前し『無量寿経』の「[[普賢大士の徳に遵へり]]」であろう。
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御開山は、この曇鸞大師の除外例の文例のまま以下のように読まれた。それは「[[本願]]」といふ言葉は阿弥陀仏の「[[選択本願]]」であるといふ法然聖人を享けているのであった。<br>
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その理解の元となったのが『論註』の阿弥陀仏の利他力(本願力)を指示する「覈本釈([[覈求其本釈]])」と、それを証する第十八願、第十一願、第二十二願の[[三願的証]]であった。[[浄土論註_(七祖)#覈求其本|(*)]]
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:たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。
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:その本願〔阿弥陀仏の本願〕の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。}}
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:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。
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:もししからずは、正覚を取らじ。
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}}
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ここでは、阿弥陀仏の本願である、第十八願の「念仏往生の願」により浄土へ往生し、第十一願の「必至滅度の願」によって仏と成り、その後に大乗菩薩の位へ降りて(従果降因)、第二十二願の「還相回向の願」によって再び浄土より穢土に還って「常倫に超出(常並みの階位を超え出て)し、諸地の行現前し(現前に十地の菩薩行が現れ)、普賢の徳を修習(普賢菩薩のような大慈悲をもって、有縁の人々を済度)」する、第二十二願の除外例を修する衆生済度の還相回向をなさしめられるとする。<br>
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つまり、第二十二願は還相を誓われた願であるとし、往生と同時に常倫に超出して諸地の行(普賢の徳)が娑婆世界で現前する、という還相を誓われた願であると見られた。『無量寿経』序分の「皆遵普賢 大士之徳(みな普賢大士の徳に遵へり)」[[仏説 無量寿経 (巻上)#八相化儀|(*)]]の意をここにみておられたのであろう。利他の信心である'''[[願作仏心]]'''の、往生浄土の徳である'''[[度衆生心]]'''としての諸地の行が現前するのである。いわゆる「智慧あるがゆえに生死に住せず。慈悲あるがゆえに涅槃に住せず。」という[[無住処涅槃]]である。智慧によって生死という有無を超えるが、大悲を起すが故に涅槃に住しないという無住処涅槃の境界である。この無住処涅槃が還相回向ということである。御開山がご消息の一通目で、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」といわれた所以である。
  
 
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: 利他教化の果をえしめ
 
: 利他教化の果をえしめ
 
: すなはち諸有に回入して
 
: すなはち諸有に回入して
: 普賢の徳を修するなり 『[[高僧和讃#bo36|高僧和讃]]』
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: 普賢の徳を修するなり 『[[高僧和讃#no36|高僧和讃]]』
  
 
なお『教行証文類』「証巻」末尾には「還相の利益は利他の正意を顕すなり」とあり、如来の利他力による往相(往生浄土の相状)を示すことは、往生者をして還相(還来穢国の相状)せしめようという阿弥陀如来の本意であると御開山はみられた。
 
なお『教行証文類』「証巻」末尾には「還相の利益は利他の正意を顕すなり」とあり、如来の利他力による往相(往生浄土の相状)を示すことは、往生者をして還相(還来穢国の相状)せしめようという阿弥陀如来の本意であると御開山はみられた。
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参考:
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;本願寺派による御開山の意による第二十二願の現代語。<br>
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 わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏たがの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。}}
  
 
→[[常倫に]]
 
→[[常倫に]]
  
 
[[Category:追記]]
 
[[Category:追記]]

2024年1月9日 (火) 01:04時点における最新版

じょうりんに…げんぜんし

 通常は「常倫諸地の行を超出し、現前に」と読む。常倫はつねなみ、普通一般の意。 (行巻 P.193証巻 P.316)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  • 常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。「証文類」
  • 常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。「論註」
梯實圓和上は「教行証文類のこころ」という講義の中で、第二十二願には三通りに読むことが出来るとお示しであった。この三通りの読み方について以下のように考察してみた。

第二十二願の三種類の読み方

第二十二願の読み方には願文当分と、曇鸞大師の読み方と、それから親鸞聖人の読み方の三種類がある。なお、経典とは、さとりの世界を言語によって描くものであるが、『大智度論』に依義不依語(義によりて語によらざる)とあるように、言葉は必ずしも直ちに真理を指すものではない。経典の意図を読み解くには、さとりの智慧が必要になる。そのさとりの智慧によって新しい経典の読み方(解釈)がされるのが、祖師方の大乗仏教の智慧であった。

「原漢文(魏訳)」

設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処。
除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道。超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳 若不爾者 不取正覚。「隠/顕」 たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。

当面の第二十二願文の読み方

第二十二願文の当面では、究極的には一生補処に至らしめる。しかし、十方の衆生を済度していこうという願い(プールヴァ・プラニダーナ(pūrva-praņidhāna 前からの願い、(もと)の願いという意)を持つ者は、一生補処から除外して、その願いの通りに利他の大乗菩薩道を実践させてやろう、というのである。中村元氏の「浄土三部経」(岩波文庫)の『無量寿経』では、サンスクリット語と漢文を対応させて以下のように読下している。ここでは、除其本願以下の文はすべて除外例となっている。この意味において、第二十二願一生補処と願生者 自らの衆生済度の願いを誓った願である。
 なお、ここでの本願の語の意味は、願生者が生前に懐いていた、(もと)の願い(pūrva-praņidhāna)であって、阿弥陀仏の本願ではない。〔〕内は私に於いて付した。破線は除外例を示す為に付した。

岩波文庫版(中村元氏)『無量寿経』の読み方、

たとひわれ仏となるをえんとき、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟して必ず一生補処に至らしめん。
(ただし)その本願〔願生者のもとの願い〕、自在に化せんとするところの、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被(かぶ)り、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方のもろもろの仏・如来を供養し、恒沙の無量の衆生を開化して、無上正真の道に(安)立せしめ、常倫の(菩薩)に超出して、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんものを除く。
もししからずんば、正覚を取らじ。

異訳の『無量寿如来会』の第二十二願は、

若我成仏 於彼国中 所有菩薩於大菩提 咸悉位階一生補処
唯除大願諸菩薩等 為諸衆生被精進甲 勤行利益修大涅槃 遍諸仏国行菩薩行 供養一切諸仏如来 安立洹沙衆生住無上覚 所修諸行復勝於前 行普賢道而得出離 若不爾者 不取菩提
もし我、成仏せんに、彼の国の中において、所有菩薩、大菩提において、みなことごとく位階一生補処ならん。ただ大願ある諸の菩薩等、諸の衆生の為に精進の甲(こうら)を被り、勤めて利益を行じ大涅槃を修して、遍く諸仏の国にして菩薩の行を行じ、一切の諸仏如来を供養して、洹沙衆生を安立し、無上覚に住し、修する所の諸行、また前に勝れて、普賢の道を行じ、しかも出離を得しめんを除く。もししからずば、菩提を取らじ。 (『無量寿如来会』の第二十二願)

と、「唯除大願諸菩薩等 (ただ大願ある諸の菩薩等を……除く)」以下は、浄土に往生して利他の菩薩道(普賢の徳)を修する除外例となっている。

『浄土論註』での読み方

「浄土論註」では、超出常倫の前までが除外例であるとして、以下のように読んでいる。

「たとひわれ仏を得んに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。
その本願〔願生者のもとの願い〕の自在に化せんとするところありて、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道に立せしめんをば除く。
常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。
もししからずは、正覚を取らじ。(浄土論註 (七祖)#P--133)

曇鸞大師は、何ゆえに浄土へ往生した未証浄心の菩薩が、多くの劫数を経るべき時を飛び越えて八地(十地) 以上の菩薩に成りえるのか、という問に答えるために第二十二願を出された。「超出常倫」の句の前までが除外例であると読み、最初の「除其本願 自在所化」文と「正真之道」までの文を結びつけ除外例とした。
そして、浄土は修行の環境が勝れているので、娑婆のように順次に菩薩の修行の階梯を経るのではなく、常倫(つねなみのともがら)の修行階梯である諸地を超出する意として「常倫の諸地の行を超出」とあるから即等に八地以上の菩薩になり、普賢の徳を修習して一生補処に至るのだとした。曇鸞大師は第二十二願は、浄土での速やかな菩薩の階位の向上を誓った願であり、一生補処への階梯を誓った願であるとみられていたのである (*)。
曇鸞大師は、ここでは第二十二願を、還相を誓った願だとはみておられない。この速やかに菩薩の階梯を経ることを各種の譬喩をあげて説明し「非常の言は常人の耳に入らず」と結論されている。
なお、ここでも「その本願」の本願(pūrva-praņidhāna)とは、願生者の本の願いという意味である。ただ、この後での「覈本釈」で、第二十二願の意味と様相が変わると見られたのが御開山であった。 →トーク:他力

御開山の読み方(証文類)

『論註』では、

常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。

と、浄土に往生すれば娑婆で説かれるような常倫諸地の行を飛び越えて普賢の徳を修習するとした。
御開山は、

常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。

と、常倫(常なみのともがら) のような通常の菩薩ではなく「還相の菩薩」としての諸地の行を現前し『無量寿経』の「普賢大士の徳に遵へり」であろう。

御開山は、この曇鸞大師の除外例の文例のまま以下のように読まれた。それは「本願」といふ言葉は阿弥陀仏の「選択本願」であるといふ法然聖人を享けているのであった。
その理解の元となったのが『論註』の阿弥陀仏の利他力(本願力)を指示する「覈本釈(覈求其本釈)」と、それを証する第十八願、第十一願、第二十二願の三願的証であった。(*)

たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。
その本願〔阿弥陀仏の本願〕の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。
もししからずは、正覚を取らじ。

ここでは、阿弥陀仏の本願である、第十八願の「念仏往生の願」により浄土へ往生し、第十一願の「必至滅度の願」によって仏と成り、その後に大乗菩薩の位へ降りて(従果降因)、第二十二願の「還相回向の願」によって再び浄土より穢土に還って「常倫に超出(常並みの階位を超え出て)し、諸地の行現前し(現前に十地の菩薩行が現れ)、普賢の徳を修習(普賢菩薩のような大慈悲をもって、有縁の人々を済度)」する、第二十二願の除外例を修する衆生済度の還相回向をなさしめられるとする。
つまり、第二十二願は還相を誓われた願であるとし、往生と同時に常倫に超出して諸地の行(普賢の徳)が娑婆世界で現前する、という還相を誓われた願であると見られた。『無量寿経』序分の「皆遵普賢 大士之徳(みな普賢大士の徳に遵へり)」(*)の意をここにみておられたのであろう。利他の信心である願作仏心の、往生浄土の徳である度衆生心としての諸地の行が現前するのである。いわゆる「智慧あるがゆえに生死に住せず。慈悲あるがゆえに涅槃に住せず。」という無住処涅槃である。智慧によって生死という有無を超えるが、大悲を起すが故に涅槃に住しないという無住処涅槃の境界である。この無住処涅槃が還相回向ということである。御開山がご消息の一通目で、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」といわれた所以である。

(17)

安楽無量の大菩薩
 一生補処にいたるなり
 普賢の徳に帰してこそ
 穢国にかならず化するなれ 『浄土和讃

(36)

還相の回向ととくことは
 利他教化の果をえしめ
 すなはち諸有に回入して
 普賢の徳を修するなり 『高僧和讃

なお『教行証文類』「証巻」末尾には「還相の利益は利他の正意を顕すなり」とあり、如来の利他力による往相(往生浄土の相状)を示すことは、往生者をして還相(還来穢国の相状)せしめようという阿弥陀如来の本意であると御開山はみられた。

参考:

本願寺派による御開山の意による第二十二願の現代語。
 わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏たがの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

常倫に