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{{Kaisetu| 本書は書名に「持名」とあるように、南無阿弥陀仏の名を持つことで、一向専修の念仏を勧めることをその根本主張とするものである。 | {{Kaisetu| 本書は書名に「持名」とあるように、南無阿弥陀仏の名を持つことで、一向専修の念仏を勧めることをその根本主張とするものである。 | ||
− | + | 本書は本末2巻に分れている。本巻においては、まず生死を離れ仏道を求めるべきことを述べ、求道心を確立すべきことを勧め、ついで仏教に八家九宗あるなか、聖道門の教えを捨てて、念仏往生の一門に帰すべきことが説かれる。今の世は末法であり、この末代相応の要法、決定往生の正因は専修念仏の一行であるというのである。この旨を浄土三部経や善導大師の釈によって詳論し、それを法然上人、親鸞聖人が伝承されていることが記されている。また念仏の功徳について、天台大師智顗や慈恩大師窺基の釈でもって説明し、念仏一行が諸行よりすぐれている点を讃仰されている。 | |
末巻においては、3問答をあげて浄土真宗の要義を述べられている。第1問答においては、親鸞聖人の一流を汲む念仏者は神明につかえるべきでないことが教示されている。第2問答においては、念仏の行者が諸仏菩薩の擁護と諸天善神の加護を受けるというが、それは浄土に往生させるために、ただ行者の信心を守護したもうのみか、あるいは今生の穢体をまもり、もろもろの願いをも成就させんためかと問い、仏菩薩は信心をまもることを本意とするが、さらに信心の行者も護られ、現世と後生に大きな利益を得ると論じられている。第3問答では、信心と念仏の関係について論じ、一向専修の念仏は信心を具足した他力念仏であるとして、信心具足の念仏を勧められている。 | 末巻においては、3問答をあげて浄土真宗の要義を述べられている。第1問答においては、親鸞聖人の一流を汲む念仏者は神明につかえるべきでないことが教示されている。第2問答においては、念仏の行者が諸仏菩薩の擁護と諸天善神の加護を受けるというが、それは浄土に往生させるために、ただ行者の信心を守護したもうのみか、あるいは今生の穢体をまもり、もろもろの願いをも成就させんためかと問い、仏菩薩は信心をまもることを本意とするが、さらに信心の行者も護られ、現世と後生に大きな利益を得ると論じられている。第3問答では、信心と念仏の関係について論じ、一向専修の念仏は信心を具足した他力念仏であるとして、信心具足の念仏を勧められている。 | ||
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おほよそ[[無始]]よりこのかた生死にめぐりて六道四生をすみかとせしに、いまながき輪廻のきづなをきりて無為の浄土に生ぜんこと、釈迦・弥陀二世尊の大<span id="P--1015"></span> | おほよそ[[無始]]よりこのかた生死にめぐりて六道四生をすみかとせしに、いまながき輪廻のきづなをきりて無為の浄土に生ぜんこと、釈迦・弥陀二世尊の大<span id="P--1015"></span> | ||
− | 悲によらずといふことなく、代々相承の祖師・先徳・善知識の恩徳にあらずといふことなし。そのゆゑは、われらがありさまをおもふに、地獄・餓鬼・畜生の三悪をまぬかれんこと、道理としてはあるまじきことなり。十悪・三毒、身にまつはれて、とこしなへに輪廻生死の因をつみ、[[五塵]]・[[六欲]]こころに染みて、ほしいままに三有流転の業をかさぬ。[[ | + | 悲によらずといふことなく、代々相承の祖師・先徳・善知識の恩徳にあらずといふことなし。そのゆゑは、われらがありさまをおもふに、地獄・餓鬼・畜生の三悪をまぬかれんこと、道理としてはあるまじきことなり。十悪・三毒、身にまつはれて、とこしなへに輪廻生死の因をつみ、[[五塵]]・[[六欲]]こころに染みて、ほしいままに三有流転の業をかさぬ。[[五篇・七聚]]の戒品ひとつとしてこれをたもつことなく、六度・[[四摂]]の功徳ひとつとしてこころにもかけず。朝な夕なにおこすところはみな妄念、とにもかくにもきざすところはことごとく悪業なり。かかる罪障の凡夫にては、人中・天上の果報を得んこともなほかたかるべし。いかにいはんや出過三界の浄土に生れんことは、おもひよらぬことなり。 |
ここに弥陀如来、[[無縁の慈悲]]にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。これを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、[[あまつさへ]]無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。しかるに弥陀如来超世の本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の衆生いかでか出離のみちをしらん。されば『法事讃』(下 五八七)の釈に、<span id="P--1016"></span>「[[不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞]]」といへり。こころは、「釈迦仏のをしへにあらずは、弥陀の[[名願]]いづれのときにかきかん」となり。たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて[[三部の経典,三部の妙典|三部の妙典]]を説き、[[五祖]]東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。まことに[[連劫累劫をふとも]]、その恩徳を報ひがたきものなり。これによりて善導和尚の解釈(観念法門・意 六三七)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。このゆゑに『摩訶止観』(意)のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」といへり。恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひにはおよばず。まして[[順次往生]]の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。このゆゑに[[斯琴王の…|斯琴王の]]私訶提仏に仕へ、梵摩達<span id="P--1017"></span> | ここに弥陀如来、[[無縁の慈悲]]にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。これを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、[[あまつさへ]]無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。しかるに弥陀如来超世の本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の衆生いかでか出離のみちをしらん。されば『法事讃』(下 五八七)の釈に、<span id="P--1016"></span>「[[不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞]]」といへり。こころは、「釈迦仏のをしへにあらずは、弥陀の[[名願]]いづれのときにかきかん」となり。たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて[[三部の経典,三部の妙典|三部の妙典]]を説き、[[五祖]]東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。まことに[[連劫累劫をふとも]]、その恩徳を報ひがたきものなり。これによりて善導和尚の解釈(観念法門・意 六三七)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。このゆゑに『摩訶止観』(意)のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」といへり。恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひにはおよばず。まして[[順次往生]]の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。このゆゑに[[斯琴王の…|斯琴王の]]私訶提仏に仕へ、梵摩達<span id="P--1017"></span> |
2021年10月1日 (金) 16:59時点における最新版
本書は本末2巻に分れている。本巻においては、まず生死を離れ仏道を求めるべきことを述べ、求道心を確立すべきことを勧め、ついで仏教に八家九宗あるなか、聖道門の教えを捨てて、念仏往生の一門に帰すべきことが説かれる。今の世は末法であり、この末代相応の要法、決定往生の正因は専修念仏の一行であるというのである。この旨を浄土三部経や善導大師の釈によって詳論し、それを法然上人、親鸞聖人が伝承されていることが記されている。また念仏の功徳について、天台大師智顗や慈恩大師窺基の釈でもって説明し、念仏一行が諸行よりすぐれている点を讃仰されている。
末巻においては、3問答をあげて浄土真宗の要義を述べられている。第1問答においては、親鸞聖人の一流を汲む念仏者は神明につかえるべきでないことが教示されている。第2問答においては、念仏の行者が諸仏菩薩の擁護と諸天善神の加護を受けるというが、それは浄土に往生させるために、ただ行者の信心を守護したもうのみか、あるいは今生の穢体をまもり、もろもろの願いをも成就させんためかと問い、仏菩薩は信心をまもることを本意とするが、さらに信心の行者も護られ、現世と後生に大きな利益を得ると論じられている。第3問答では、信心と念仏の関係について論じ、一向専修の念仏は信心を具足した他力念仏であるとして、信心具足の念仏を勧められている。
持名鈔
本
持名鈔 本
【1】 ひそかにおもんみれば、人身うけがたく仏教あひがたし。しかるにいま、片州なれども人身をうけ、末代なれども仏教にあへり。生死をはなれて仏果にいたらんこと、いままさしくこれときなり。このたびつとめずして、もし三途にかへりなば、まことに宝の山に入りて、手をむなしくしてかへらんがごとし。なかんづくに、無常のかなしみはまなこのまへにみてり、ひとりとしてもたれかのがるべき。三悪の火坑はあしのしたにあり、仏法を行ぜずはいかでかまぬかれん。みなひとこころをおなじくして、ねんごろに仏道をもとむべし。
【2】 しかるに仏道においてさまざまの門あり。いはゆる顕教・密教、大乗・小乗、権教・実教、経家・論家、その部八宗・九宗にわかれ、その義千差万別なり。いづれも釈迦一仏の説なれば、利益みな甚深なり。説のごとく行ぜばともに生死を出づべし、教のごとく修せばことごとく菩提を得べし。ただし、時末法におよび、機下根になりて、かの諸行においては、その行成就して仏果をえんことはなはだ難し。いはゆる釈尊の滅後において、正像末の三時あり。そのうち正法千年のあひだは教・行・証の三つともに具足しき、像法千年のあひだは教行ありといへども証果のひとなし、末法万年のあひだは教のみありて行証はなし。今の世はすなはち末法のはじめなれば、ただ諸宗の教門はあれども、まことに行をたて証をうるひとはまれなるべし。されば智慧をみがきて煩悩を断ぜんこともかなひがたく、こころをしづめて禅定を修せんこともありがたし。
【3】 ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。そのゆゑは弥陀の本願の行なるがゆゑに、釈尊付属の法なるがゆゑに、諸仏証誠の行なるがゆゑなり。おほよそ阿弥陀如来は三世の諸仏の本師
なれば、久遠実成の古仏にてましませども、衆生の往生を決定せんがために、しばらく法蔵比丘となのりて、その正覚を成じたまへり。かの五劫思惟のむかし、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその本願としたまひき。「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と誓ひたまひしに、その願すでに成就して、成仏よりこのかたいまに十劫なり。
如来の正覚すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞ疑はんや。これによりて釈尊はこの法をえらびて阿難に付属し、諸仏は舌をのべてこれを証誠したまへり。かるがゆゑに一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。
【4】 されば善導和尚の『往生礼讃』(六五九)のなかに、くはしく二行の得失をあげられたり。まづ専修の得をほめていはく、「もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期とするものは、十はすなはち十ながら生れ、百はすなはち百ながら生る。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆ
ゑに、仏の本願に相応するがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑに」といへり。「外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに」といふは、雑行雑善をくはへざれば、そのこころ散乱せずして一心の正念に住すとなり。「仏の本願と相応するがゆゑに」といふは、弥陀の本願にかなふといふ。
「教に違せざるがゆゑに」といふは、釈尊のをしへに違はずとなり。「仏語に随順するがゆゑに」といふは、諸仏のみことにしたがふとなり。
つぎに雑修の失をあげていはく、「もし専を捨てて雑業を修せんとするものは、百のときにまれに一二を得、千のときにまれに五三を得。 なにをもつてのゆゑに。雑縁乱動して正念を失ふによるがゆゑに、仏の本願と相応せざるによるがゆゑに、教と相違するがゆゑに、仏語に順ぜざるがゆゑに、係念相続せざるがゆゑに、憶想間断するがゆゑに、回願慇重真実ならざるがゆゑに、貪・瞋・諸見の煩悩きたりて間断するがゆゑに、慚愧してとがをくゆることなきがゆゑに、また相続して仏恩を念報せざるがゆゑに、心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、人我みづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽ひて雑縁にちかづきて、往生の正行を 自障障他するがゆゑに」といへり。雑修のひとは弥陀の本願にそむき、釈迦の所説にたがひ、諸仏の証誠にかなはずときこえたり。
なほかさねて二行の得失を判じていはく、「意をもつぱらにしてなすものは、十はすなはち十ながら生る。雑を修して心を至さざるものは、千のなかにひとりもなし」といへり。雑修のひとの往生しがたきことをいふに、はじめには、しばらく百のときに一二をゆるし、千のときに五三を挙ぐといへども、のちにはつひに千人のなかにひとりもゆかずと定む。三昧発得の人師、ことば を尽して釈したまへり。もつともこれを仰ぐべし。
【5】 おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義 五〇〇)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。
一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。
しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなか に難し」といへるは、『経』(大経・下)の文なれば、まことにことわりなるべし。 そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。 これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。
おほよそ持戒・坐禅のつとめも転経・誦呪の善も、その門に入りて行ぜんに、いづれも利益むなしかるまじけれども、それはみな聖人の修行なるがゆゑに、凡夫の身には成じがたし。 われらも過去には三恒河沙の諸仏のみもとにして、大菩提心を発して仏道を修せしかども、自力かなはずしていままで流転の凡夫となれり。いまこの身にてその行を修せば、行業成ぜずしてさだめて生死を出でがたし。されば善導和尚の釈(散善義 四七二)に、「わが身無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位にすすみて、因まどかに果熟す。 聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、乃至今日まで、 虚然として流浪す」といへるはこのこころなり。しかれば、仏道修行は、よくよく機と教との分限をはかりてこれを行ずべきなり。すべからく末法相応の易行に帰して、決定往生ののぞみをとぐべしとなり。
【6】 そもそも、この念仏はたもちやすきばかりにて功徳は余行よりも劣ならば、おなじくつとめながらもそのいさみなかるべきに、行じやすくして功徳は諸行にすぐれ、修しやすくして勝利は余善にすぐれたり。
弥陀は諸仏の本師、念仏は諸教の肝心なるがゆゑなり。これによりて、『大経』には一念をもつて大利無上の功徳と説き、『小経』には念仏をもつて多善根福徳の因縁とするむねを説き、『観経』には念仏の行者をほめて人中の分陀利華にたとへ、『般舟経』(意)には「三世の諸仏みな弥陀三昧によりて正覚を成る」と説けり。
このゆゑに善導和尚の釈(定善義 四三七)にいはく、「自余衆善 雖名是善 若比念仏者 全非比校也」といへり。こころは、「自余のもろもろの善も、これ善と名づくといへども、もし念仏にたくらぶれば、まつたくならべたくらぶべきにあらず」となり。またいはく、「念仏三昧 功能超絶 実非雑善 得為比類」(散善義 四九九)といへり。こころは、「念仏三昧の功能、余善に超えす
ぐれて、まことに雑善をもつてたぐひとすることを得るにあらず」となり。
ただ浄土の一宗のみ念仏の行をたふとむにあらず。他宗の高祖またおほく弥陀をほめたり。天台大師(智顗)の釈(摩訶止観)にいはく、「若唱弥陀 即是唱十方仏 功徳正等 但専以弥陀 為法門主」といへり。こころは、「もし弥陀を唱ふれば、すなはちこれ十方の仏を唱ふると功徳まさにひとし。 ただもつぱら弥陀をもつて法門の主とす」となり。また慈恩大師の釈(西方要決)にいはく、「諸仏願行 成此果名 但能念号 具包衆徳」といへり。こころは、「諸仏の願行、この果の名を成ず。ただよく号を念ずれば、つぶさにもろもろの徳を包ぬ」となり。おほよそ諸宗の人師、念仏をほめ西方をすすむること、挙げてかぞふべからず。しげきがゆゑにこれを略す。ゆめゆめ念仏の功徳をおとしめおもふことなかれ。
【7】 しかるにひとつねにおもへらく、つたなきものの行ずる法なれば念仏の功徳は劣るべし、たふときひとの修する教なれば諸教は勝るべしとおもへり。その義しからず。下根のもののすくはるべき法なるがゆゑに、ことに最上の法とはしらるるなり。ゆゑいかんとなれば、薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。されば『選択集』(一二五八)のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。
そもそも、弥陀如来の利益のことにすぐれたまへることは、煩悩具足の凡夫の界外の報土に生るるがゆゑなり。善導和尚の釈(法事讃・下 五五二)にいは く、「一切仏土皆厳浄 凡夫乱想恐難生 如来別指西方国 従是超過十万億」といへり。こころは、「一切の仏土はみないつくしくきよけれども、凡夫の乱想おそらくは生れがたし。如来別して西方国をさしたまふ。これより十万億を超え過ぎたり」となり。ことに阿閦・宝生の浄土もたへにしてすぐれたり。密厳・華蔵の宝刹もきよくしてめでたけれども、乱想の凡夫はかげをもささず、具縛のわれらはのぞみをたてり。しかるに阿弥陀如来の本願は、十悪も五逆もみな摂して、きらはるるものもなく、すてらるるものもなし。安養の浄土は謗法も闡提もおなじく生れて、もるるひともなく、のこるひともなし。諸仏の浄土にきらはれたる五障の女人は、かたじけなく聞名往生の益にあづかり、無間の炎にまつはるべき五逆の罪人は、すでに滅罪得生の証をあらはす。されば超世の悲願ともなづけ、不共の利生とも号す。かかる殊勝の法なるがゆゑに、これを行ずれば諸仏・菩薩の擁護にあづかり、これを修すれば諸天・善神の加護をかうぶる。ただねがふべきは西方の浄土、行ずべきは念仏の一行なり。
持名鈔 本 末
持名鈔 末
【8】 問うていはく、念仏の行者、神明に事うまつらんこと、いかがはんべるべき。
答へていはく、余流の所談はしらず、親鸞聖人の勧化のごときは、これをいましめられたり。いはゆる『教行証の文類』の六(化身土巻)に諸経の文を引きて、仏法に帰せんものは、その余の天神・地祇に事うまつるべからざる旨を判ぜられたり。この義のごときは念仏の行者にかぎらず、総じて仏法を行じ仏弟子につらならんともがらは、これに事ふべからずとみえたり。しかれども、ひとみなしからず、さだめて存ずるところあるか。それを是非するにはあらず。聖人(親鸞)の一流におきては、もつともその所判をまもるべきものをや。おほよそ神明につきて権社・実社の不同ありといへども、内証はしらず、まづ示同のおもてはみなこれ輪廻の果報、なほまた九十五種の外道のうちな り。仏道を行ぜんもの、これを事とすべからず。ただしこれに事へずとも、もつぱらかの神慮にはかなふべきなり。これすなはち和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはりなるゆゑに、垂迹の本意は、しかしながら衆生に縁を結びてつひに仏道に入らしめんがためなれば、真実念仏の行者になりてこのたび生死をはなれば、神明ことによろこびをいだき、権現さだめて笑みを含みたまふべし。一切の神祇・冥道、念仏のひとを擁護すといへるはこのゆゑなり。
【9】 問うていはく、念仏の行者は、諸仏・菩薩の擁護にもあづかり、諸天・善神の加護をもかうぶるべしといふは、浄土に往生せしめんがためにただ信心を守護したまふか、また今生の穢体をもまもりてもろもろの所願をも成就せしめたまふか。あきらかにこれをきかんとおもふ。
答へていはく、かの仏の心光、このひとを摂護して捨てずともいひ、六方の諸仏、信心を護念すとも釈すれば、信心をまもりたまふことは仏の本意なれば申すにおよばず。しかれども、まことの信心をうるひとは、現世にもその益にあづかるなり。いはゆる善導和尚の『観念法門』に、『観仏三昧経』・『十往生経』・『浄土三昧経』・『般舟三昧経』等の諸経を引きて、一心に弥陀に帰 して往生をねがふものには、諸仏・菩薩かげのごとくにしたがひ、諸天・善神昼夜に守護して、一切の災障おのづからのぞこり、もろもろのねがひかならずみつべき義を釈したまへり。
されば阿弥陀仏は、現世・後生の利益ともにすぐれたまへるを、浄土の三部経経には後生の利益ばかりを説けり、余経にはおほく現世の益をもあかせり。かの『金光明経』は鎮護国家の妙典なり。かるがゆゑに、この経より説きいだすところの仏・菩薩をば、護国の仏・菩薩とす。しかるに正宗の四品のうち、「寿量品」を説きたまへるは、すなはち西方の阿弥陀如来なり。これによりて阿弥陀仏をば、ことに息災延命、護国の仏とす。かの天竺(印度)に毘舎離国といふ国あり。その国に五種の疫癘おこりて、ひとごとにのがるるものなかりしに、月蓋長者、釈迦如来にまゐりて、「いかにしてかこの病をまぬかるべき」と申ししかば、「西方極楽世界の阿弥陀仏を念じたてまつれ」と仰せられけり。さて家にかへりて、をしへのごとく念じたてまつりければ、弥陀・観音・勢至の三尊、長者の家に来りたまひしとき、五種の疫神まのあたりひとの目にみえて、すなはち国土を出でぬ。ときにあたりて、国のうちの病ことごとくすみや かにやみにき。そのとき現じたまへりし三尊の形像を、月蓋長者、閻浮檀金をもつて鋳うつしたてまつりけり。その像といふは、いまの善光寺の如来これなり。霊験まことに厳重なり。またわが朝には、嵯峨の天皇の御時、天下に日てり、雨くだり、病おこり、戦いできて国土おだやかならざりしに、いづれの行のちからにてかこの難はとどまるべきと、伝教大師(最澄)に勅問ありしかば、「七難消滅の法には南無阿弥陀仏にしかず」とぞ申されける。おほよそ弥陀の利生にて、わざはひをはらひ難をのぞきたるためし、異国にも本朝にもそのあとこれおほし。つぶさにしるすにいとまあらず。されば国の災難を鎮め、身の不祥をはらはんとおもはんにも、名号の功用にはしかざるなり。
ただし、これはただ念仏の利益の現当かねたることをあらはすなり。しかりといへども、まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、この念仏をもつて現世のいのりとはおもふべからず。ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり。これによりて『藁幹喩経』といへる経のなかに、信心をもつて菩提をもとむれば現世の悉地も成就すべきことをいふとして、ひとつのたとへを説けることあり。「たとへばひ とありて、種をまきて稲をもとめん。まつたく藁をのぞまざれども、稲いできぬれば、藁おのづから得るがごとし」といへり。稲を得るものはかならず藁を得るがごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。藁を得るものは稲を得ざるがごとくに、現世の福報をいのるものはかならずしも後生の善果をば得ずとなり。
経釈ののぶるところかくのごとし。ただし、今生をまもりたまふことは、もとより仏の本意にあらず。かるがゆゑに、前業もしつよくは、これを転ぜぬこともおのづからあるべし。後生の善果を得しめんことは、もつぱら如来の本懐なり。かるがゆゑに、無間に堕すべき業なりとも、それをばかならず転ずべし。しかれば、たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆめゆめ往生の大益をば疑ふべからず。いはんや現世にもその利益むなしかるまじきことは聖教の説なれば、仰いでこれを信ずべし。ただふかく信心をいたして一向に念仏を行ずべきなり。
【10】 問うていはく、真実の信心をえてかならず往生を得べしといふこと、いまだそのこころをえず。南無阿弥陀仏といふは、弥陀の本願なるがゆゑに決 定往生の業因ならば、これを口にふれんもの、みな往生すべし、なんぞわづらはしく信心を具すべしといふや。また信心といふは、いかやうなるこころをいふぞや。
答へていはく、南無阿弥陀仏といへる行体は往生の正業なり。しかれども、機に信ずると信ぜざるとの不同あるがゆゑに、往生を得ると得ざるとの差別あり。かるがゆゑに、『大経』には三信と説き、『観経』には三心と示し、『小経』には一心とあかせり。これみな信心をあらはすことばなり。このゆゑに、源空聖人は、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて能入とす」(選択集 一二四八)と判じ、親鸞聖人は、「よく一念喜愛の心を発せば、煩悩を断ぜずして涅槃を得」(正信偈)と釈したまへり。他力の信心を成就して報土の往生を得べしといふこと、すでにあきらかなり。その信心といふは、疑なきをもつて信とす。いはゆる仏語に随順してこれを疑はず、ただ師教をまもりてこれに違せざるなり。
おほよそ無始よりこのかた生死にめぐりて六道四生をすみかとせしに、いまながき輪廻のきづなをきりて無為の浄土に生ぜんこと、釈迦・弥陀二世尊の大 悲によらずといふことなく、代々相承の祖師・先徳・善知識の恩徳にあらずといふことなし。そのゆゑは、われらがありさまをおもふに、地獄・餓鬼・畜生の三悪をまぬかれんこと、道理としてはあるまじきことなり。十悪・三毒、身にまつはれて、とこしなへに輪廻生死の因をつみ、五塵・六欲こころに染みて、ほしいままに三有流転の業をかさぬ。五篇・七聚の戒品ひとつとしてこれをたもつことなく、六度・四摂の功徳ひとつとしてこころにもかけず。朝な夕なにおこすところはみな妄念、とにもかくにもきざすところはことごとく悪業なり。かかる罪障の凡夫にては、人中・天上の果報を得んこともなほかたかるべし。いかにいはんや出過三界の浄土に生れんことは、おもひよらぬことなり。
ここに弥陀如来、無縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに罪悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。これを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、あまつさへ無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。しかるに弥陀如来超世の本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の衆生いかでか出離のみちをしらん。されば『法事讃』(下 五八七)の釈に、「不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞」といへり。こころは、「釈迦仏のをしへにあらずは、弥陀の名願いづれのときにかきかん」となり。たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて三部の妙典を説き、五祖東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。まことに連劫累劫をふとも、その恩徳を報ひがたきものなり。これによりて善導和尚の解釈(観念法門・意 六三七)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。これすなはち、仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。このゆゑに『摩訶止観』(意)のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずることあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報ぜんや」といへり。恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひにはおよばず。まして順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。このゆゑに斯琴王の私訶提仏に仕へ、梵摩達 が珍宝比丘に仕へし〔に〕飲食・衣服・臥具・医薬の四事の供養をのべき。これみな念仏三昧の法をきかんがためなり。おほよそ仏法にあふことは、おぼろげの縁にてはかなはず、おろかなるこころざしにてはとげがたきことなり。 大王の妙法をもとめし給仕を千載にいたし、常啼の般若をききし五百由旬の城にいたる。されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。まことにこれ、本師知識の恩徳にあらずといふことなし。ちからの堪へんにしたがひて、いかでか報謝のこころざしをぬきいでざらんや。『長阿含経』のなかに、師長に仕うまつるに五つのことあることを説けり。「一つには給仕をいたし、二つには礼敬供養す、三つには尊重頂戴す、四つには師、教勅あれば敬順してたがふことなし、五つには師にしたがひて法をきき、よくたもちてわすれず」といへり。しかれば、きくところの法をよくたもち、その命をすこしもそむかず、こころざしをぬきいでて給仕・供養をいたし、まことをはげまして尊重・礼敬すべきなり。
これすなはち、木像ものいはざればみづから仏教をのべず、経典くちなければてづから法門を説くことなし。このゆゑに仏法を授くる師範をもつて、滅後の如来とたのむべきがゆゑなり。しかのみならず善導和尚は「同行・善知識に親近せよ」(礼讃・意 六六〇)とすすめ、慈恩大師は「同縁のともを敬へ」(西方要決)とのべられたり。そのゆゑは、善知識にちかづきてはつねに仏法を聴聞し、同行にむつびては信心をみがくべしといふこころなり。わろからんことをばたがひにいさめ、ひがまんことをばもろともにたすけて、正路におもむかしめんがためなり。かるがゆゑに、師のをしへをたもつはすなはち仏教をたもつなり、師の恩を報ずるはすなはち仏恩を報ずるなり。同行のことばをもちゐては、すなはち諸仏のみことを信ずるおもひをなすべし。他力の大信心をうるひとは、その内証、如来にひとしきいはれあるがゆゑなり。
持名鈔 末