操作

「がんさぶっしん」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
(同じ利用者による、間の6版が非表示)
1行目: 1行目:
 
願作仏心
 
願作仏心
  
 仏にならんと願う心。[[曇鸞]]大師は[[無上菩提心]]を規定して願作仏身、度衆生心とされた。→[[菩提心]]
+
 仏にならんと願う心。[[曇鸞]]大師は[[無上菩提心]]を規定して願作仏心、度衆生心とされた。→[[菩提心]]
  
 
 【左訓】「仏にならんと願ふこころなり」([[高僧和讃#P--581|高僧 P.581]]) 
 
 【左訓】「仏にならんと願ふこころなり」([[高僧和讃#P--581|高僧 P.581]]) 
8行目: 8行目:
  
 
 【左訓】「浄土の大菩提心なり」(異本)  ([[正像末和讃#P--604|正像 P.604]])
 
 【左訓】「浄土の大菩提心なり」(異本)  ([[正像末和讃#P--604|正像 P.604]])
 
  
 
{{Copyright}}
 
{{Copyright}}
 
----
 
----
『論註』では、[[無上菩提心]]を「願作仏心」「度衆生心」とされている。
+
『論註』では、[[無上菩提心]]を「[[願作仏心]]」「[[度衆生心]]」とされている。
:この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。 もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。 ([[浄土論註 (七祖)#P--144|論註 P.144]])  ([[信巻本#P--247|信巻 P.247で引文]])
+
{{Inyou|
御開山は本願力回向の横の菩提心を横超とされ、
+
:この[[無上菩提心]]とは、すなはちこれ[[願作仏心]]なり。[[願作仏心]]とは、すなはちこれ[[度衆生心]]なり。[[度衆生心]]とは、すなはち[[衆生]]を[[摂取]]して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず[[無上菩提心]]を発すなり。 {{DotUL|もし人、[[無上菩提心]]を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間(ひま)なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに[[往生]]を得ざるべし}}。 ([[浄土論註 (七祖)#P--144|論註 P.144]])  ([[信巻本#P--247|信巻 P.247で引文]])
:横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。 ([[信巻本#P--246|信巻 P.246]])
+
}}
とされ、これを「[[横超の金剛心]]」といわれた。
+
御開山は本願力回向の菩提心を「[[横超]]」とされ、
 +
{{Inyou|
 +
:[[横超]]とは、これすなはち{{ULR|願力回向の'''[[信楽]]'''、これを'''[[願作仏心]]'''といふ。}}願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを[[横超の金剛]]心と名づくるなり。 ([[信巻本#P--246|信巻 P.246]])
 +
}}
 +
とされ、「[[信楽]]」は「[[願作仏心]]」(浄土の大菩提心)であるとされた。
  
(20)
 
 
:浄土の大菩提心は
 
:浄土の大菩提心は
 
::願作仏心をすすめしむ
 
::願作仏心をすすめしむ
 
::すなはち願作仏心を
 
::すなはち願作仏心を
::度衆生心となづけたり
+
::度衆生心となづけたり ([[正像末和讃#no20|正像 P.603]])
 +
 
 +
:度衆生心といふことは
 +
: 弥陀智願の回向なり
 +
: 回向の信楽うるひとは
 +
: 大般涅槃をさとるなり ([[正像末和讃#no21|正像 P.604]])
 +
 
 +
:如来の回向に帰入して
 +
: 願作仏心をうるひとは
 +
: 自力の回向をすてはてて
 +
: 利益有情はきはもなし ([[正像末和讃#no22|正像 P.604]])
 +
 
 +
:→[[上求菩提・下化衆生]]
 +
:→[[願作仏心]]
 +
:→[[度衆生心]]
 +
:→[[二種回向]]
 +
:→[[歎異抄#no4|慈悲に聖道・浄土のかはりめあり]]
 +
 
 +
----
  
インクルード ノート
+
{{Tinc|ノート:がんさぶっしん}}
{{:ノート:がんさぶっしん}}
+
  
  

2024年5月30日 (木) 02:10時点における最新版

願作仏心

 仏にならんと願う心。曇鸞大師は無上菩提心を規定して願作仏心、度衆生心とされた。→菩提心

 【左訓】「仏にならんと願ふこころなり」(高僧 P.581) 

 【左訓】「弥陀の願力をふたごころなく信ずるをいふなり」(異本)  (正像 P.603)

 【左訓】「浄土の大菩提心なり」(異本)  (正像 P.604)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『論註』では、無上菩提心を「願作仏心」「度衆生心」とされている。

この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。 もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間(ひま)なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。 (論註 P.144) (信巻 P.247で引文)

御開山は本願力回向の菩提心を「横超」とされ、

横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。 (信巻 P.246)

とされ、「信楽」は「願作仏心」(浄土の大菩提心)であるとされた。

浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心となづけたり (正像 P.603)
度衆生心といふことは
 弥陀智願の回向なり
 回向の信楽うるひとは
 大般涅槃をさとるなり (正像 P.604)
如来の回向に帰入して
 願作仏心をうるひとは
 自力の回向をすてはてて
 利益有情はきはもなし (正像 P.604)
上求菩提・下化衆生
願作仏心
度衆生心
二種回向
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり

◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:がんさぶっしん

 明恵高弁は『選択集』を読み、菩提心を撥去する法然は畜生である、悪魔であるとまで罵倒した。真摯な求道僧であった明恵は、それでは汝(明恵自身)は真正の菩提心を発せているのかと自問し、菩提心は発せていないと正直に答えていた。しかし菩提心は発せていないが、法然はわたしが目標としている仏道の正因である菩提心を無視したことが許せないのだとしていた。
御開山は、

自力聖道の菩提心
 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は
 いかでか発起せしむべき (正像 P.603)

と、明恵のいう自力の菩提心の発しがたきことを示し、本願力回向の「大信」は願作仏心度衆生心の浄土の菩提心であるとされたのであろう。菩提心はわたしがおこす心ではなく、因位の阿弥陀仏の一切の衆生を済度しようという菩提心を歓喜信受することが浄土の菩提心であるとされたのである。これを本願力回向の信心の徳とされたのであった。

摧邪輪 浄土宗全書 第8巻750P

問曰 爾者汝有菩提心乎。
問うて曰く、爾れば汝に菩提心ありや。
答 設雖無之 如此知 是正見也。
答う。(たと)(これ)なしと(いえど)も、此の如く知る、是れ正見なり。
既有正見者 欣可欣 厭可厭。
既に正見ある者は、(ねが)うべきを欣い、厭うべきを厭う。
知菩提心是佛道正因故 念念愛樂之。
菩提心は是れ仏道の正因と知る故に、念念に之を愛楽す。
知汝如所立是邪道故 念念厭惡之 終必可增長菩提心 成無上佛果。
汝が所立の如きは是れ邪道なりと知る故に、念念に之を厭悪し、終に必ず菩提心を増長し無上の仏果を成ずべし。
汝厭惡菩提心 佛種既朽敗。
汝の菩提心を厭悪する、仏種既に朽敗せり。
妙果依何得成。
妙果何に依りてか成ずるを得んや。
况又有相發心 行相麤顯。
(いわ)んや又有相の発心、行相 麁顕なり。
隨分愛樂佛境者何必非菩提心乎。
随分に仏境を愛楽するは、何ぞ必ず菩提心にあらずや。

⋆明恵は、自身は菩提心を発せていないが「菩提心は是れ仏道の正因と知る故に、念念に之を愛楽す」としていた。これは、御開山の示された、あらゆる衆生を済度する本願力回向のご信心を歓喜し信受することでもあった。 明恵は「随分に仏境を愛楽するは、何ぞ必ず菩提心にあらずや」というのだが、御開山によれば、これは本願の金剛心である因位の阿弥陀仏の菩提心を信楽愛楽正受する信であった。
「信巻」で『華厳経』「入法界品」に説かれる菩提心の結論としての偈文、

聞此法歡喜 信心無疑者
此の法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、
速成無上道 與諸如來等
速やかに無上道を成じ、諸の如來と等しからん。(「入法界品」)

の文を、

この法を聞きて信心(菩提心)を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」(信巻 P.237)となり。

と、訓じられた所以である。これは華厳宗の学僧であった明恵上人への御開山の応答の意味でもあったのだろう。