「三種の愛心」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
さんしゅのあいしん | さんしゅのあいしん | ||
− | <kana>境界愛(きょうがい-あい)</kana>・<kana>自体愛(じたい-あい)</kana>・<kana>当生愛(とうしょう-あい)</kana>の三種類の愛心(執着心)のこと。 | + | <kana>境界愛(きょうがい-あい)</kana>・<kana>自体愛(じたい-あい)</kana>・<kana>当生愛(とうしょう-あい)</kana>の三種類の愛心(執着心)のこと。([[往生要集中巻 (七祖)#P--1054|要集 P.1054]]) |
人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。家族や財産などへの愛着である'''境界愛'''、自分自身の存在そのものに対する執着である'''自体愛'''、自身は死後どのようになるのかと憂える'''当生愛'''をいう。このような衆生の三種の愛心の障りを仏は安然として見ていられないので臨終に[[来迎]]するとされた。([[往生要集中巻 (七祖)#P--1054|要集 P.1054]])<br /> | 人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。家族や財産などへの愛着である'''境界愛'''、自分自身の存在そのものに対する執着である'''自体愛'''、自身は死後どのようになるのかと憂える'''当生愛'''をいう。このような衆生の三種の愛心の障りを仏は安然として見ていられないので臨終に[[来迎]]するとされた。([[往生要集中巻 (七祖)#P--1054|要集 P.1054]])<br /> | ||
9行目: | 9行目: | ||
親鸞聖人はこの正念の考えを継承発展され、『観経』の[[念仏衆生摂取不捨]]の意を考察されて、 | 親鸞聖人はこの正念の考えを継承発展され、『観経』の[[念仏衆生摂取不捨]]の意を考察されて、 | ||
: しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ'''正念'''なりと、知るべしと。「[[顕浄土真実行文類#no12|破闇満願釈]]」 | : しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ'''正念'''なりと、知るべしと。「[[顕浄土真実行文類#no12|破闇満願釈]]」 | ||
− | と、[[南無阿弥陀仏]]が[[正念]]であり、[[本願]]を[[信受]]する者は、すでに[[摂取不捨]] | + | と、[[南無阿弥陀仏]]が[[正念]]であり、[[本願]]を[[信受]]する者は、すでに[[摂取不捨]]の身であるとされた。御消息に |
+ | :「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに[[正定聚]]の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、[[来迎]]たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。[[来迎の儀則]]をまたず」([[消息上#P--735|消息 P.735]]) | ||
+ | とされた所以である。 | ||
そして、自力の念仏を称えて[[来迎]]を期するような者は、[[誓願一仏乗]]の「最勝真妙の正業」を受け容れない諸行の行者であり「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。」[[親鸞聖人御消息#no1|『ご消息』(1)]]、とされた。[[利用者:林遊|林遊]] | そして、自力の念仏を称えて[[来迎]]を期するような者は、[[誓願一仏乗]]の「最勝真妙の正業」を受け容れない諸行の行者であり「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。」[[親鸞聖人御消息#no1|『ご消息』(1)]]、とされた。[[利用者:林遊|林遊]] | ||
− | + | :→[[トーク:後生の一大事]] | |
:→[[境界と…|境界と自体と当生との三種の愛]] | :→[[境界と…|境界と自体と当生との三種の愛]] | ||
{{JDS|三種の愛心}} | {{JDS|三種の愛心}} | ||
[[Category:追記]] | [[Category:追記]] |
2023年11月3日 (金) 00:32時点における最新版
さんしゅのあいしん
人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。家族や財産などへの愛着である境界愛、自分自身の存在そのものに対する執着である自体愛、自身は死後どのようになるのかと憂える当生愛をいう。このような衆生の三種の愛心の障りを仏は安然として見ていられないので臨終に来迎するとされた。(要集 P.1054)
法然聖人は、『阿弥陀経』の異訳である『称讃浄土仏摂受経』の
- 「命終の時に臨みて、無量寿仏、其の無量の声聞の弟子菩薩衆と倶に、前後に囲繞し、其の前に来住して、慈悲加祐し、心をして乱れざらしむ。」(*)
の文から、来迎があるから正念に住するのであり、臨終に正念であるから来迎があるのではないとされた。つまり念仏を称えることによって正念に住するから仏の来迎があるという説を否定されている。[1]
親鸞聖人はこの正念の考えを継承発展され、『観経』の念仏衆生摂取不捨の意を考察されて、
- しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「破闇満願釈」
と、南無阿弥陀仏が正念であり、本願を信受する者は、すでに摂取不捨の身であるとされた。御消息に
とされた所以である。
そして、自力の念仏を称えて来迎を期するような者は、誓願一仏乗の「最勝真妙の正業」を受け容れない諸行の行者であり「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。」『ご消息』(1)、とされた。林遊