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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「信知、真知、誠知、良知。まことにしんぬ。<br /> 註釈版では以上の漢語を和語で「まことにしんぬ」と読んでいる。なお論釈...」)
 
 
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信知、真知、誠知、良知。まことにしんぬ。<br />
 
信知、真知、誠知、良知。まことにしんぬ。<br />
  
註釈版では以上の漢語を和語で「まことにしんぬ」と読んでいる。なお論釈の引文の場合は「信知」と漢文にしている。
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『教行証文類』の御自釈では、上に挙げた漢語を和語で「まことにしんぬ」と読んでおられる。なお論釈の引文の場合は「信知」と漢文のまま読まれておられた。三心字訓釈では「信楽といふは、'''信'''とはすなはちこれ'''真'''なり、'''実'''なり、'''誠'''なり…」([[信巻本#P--230|信巻 P.230]]) と、信とは真実であるとされておられた。<br />
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以下は『教行証文類』の御自釈に於いて漢語を「まことにしんぬ」と訓じられている用例。
  
真知 ([[信巻本#P--231|信巻 P.231]]),([[信巻本#P--244|信巻 P.244]]),([[信巻末#no103|信巻 P.264]]),([[化巻本#no67|化巻 P.412]])
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:信知 ([[行巻#no77|行巻 P.188]]),([[信巻本#P--234|信巻 P.234]]),([[信巻本#no50|信巻 P.245]]),([[化巻本#no69|化巻 P.413]])
  
信知 ([[行巻#P--188|行巻 P.188]]),([[信巻本#P--234|信巻 P.234]]),([[信巻本#no50|信巻 P.245]]),([[化巻本#no69|化巻 P.413]])
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:真知 ([[信巻本#P--231|信巻 P.231]]),([[信巻本#P--244|信巻 P.244]]),([[信巻末#no103|信巻 P.264]]),([[化巻本#no67|化巻 P.412]])
  
誠知 ([[行巻#P--188|行巻 P.190]]),([[信巻末#P--266|信巻 P.266]]),([[証巻#no18|証巻 P.335]])
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:誠知 ([[行巻#no77|行巻 P.190]]),([[信巻末#P--266|信巻 P.266]]),([[証巻#no18|証巻 P.335]])
  
良知 ([[行巻#no72|行巻 P.187]]),([[行巻#P--197|行巻 P.197]]),([[化巻本#P--383|化巻 P.383]])
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:良知 ([[行巻#no72|行巻 P.187]]),([[行巻#P--197|行巻 P.197]]),([[化巻本#P--383|化巻 P.383]])
  
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なお、明知(あきらかに知んぬ)という表現も3例ある。<br />
  
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:明知 ([[行巻#no69|行巻 P.186]]),([[信巻本#P--230|信巻 P.230]]),([[真巻#no37|真巻 P.370]])
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故知(ゆゑに知んぬ)の自釈の用例は、
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:故知 ([[総序#P--131|総序 P.131]]),([[信巻末#no70|信巻 P.253]]),([[真巻#P--371|真巻 P.371]]),([[真巻#P--372|真巻 P.372]])
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である。<br />
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仏教では知るということを、'''「[[見]]」'''ともいうのだが『涅槃経』には、法を認知することを「[[見]]」といい、「見に二種あり。一つには眼見、二つには[[聞見]]なり」([[真巻#P--356|真巻 P.356]])とある。いわば眼見とは、眼で見るように体験という個別(特殊)的な経験をいい、'''[[聞見]]'''とは法を聞くことによって心が開かれ法を[[信知]]することをいふのであろう。<br />
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そのような意味に於いて「まことにしんぬ」や「あきらかに知んぬ」という表現は、自己の体験ではなく「[[聴聞]]」によって'''[[仏願の生起本末]]'''の由来を知らされることであった。これを「[[信知]]、真知、誠知、良知(まことにしんぬ)」といふ。仏教では身・心だけではなく、身・口・意の「[[三業]]」をたて、身・心(意)の他に、口業([[語業]])を重視する。法は言葉によって伝えられるからである。特に信を重んじる浄土真宗では言葉(語業)を大切にするので「ただ仏法は聴聞にきはまる」([[一代記#no193|一代記 P.1292]])といふ。
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:→[[聞見]]
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:→[[聞即信]]
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:→[[三哉]]
  
 
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2020年10月15日 (木) 14:46時点における最新版

信知、真知、誠知、良知。まことにしんぬ。

『教行証文類』の御自釈では、上に挙げた漢語を和語で「まことにしんぬ」と読んでおられる。なお論釈の引文の場合は「信知」と漢文のまま読まれておられた。三心字訓釈では「信楽といふは、とはすなはちこれなり、なり、なり…」(信巻 P.230) と、信とは真実であるとされておられた。
以下は『教行証文類』の御自釈に於いて漢語を「まことにしんぬ」と訓じられている用例。

信知 (行巻 P.188),(信巻 P.234),(信巻 P.245),(化巻 P.413)
真知 (信巻 P.231),(信巻 P.244),(信巻 P.264),(化巻 P.412)
誠知 (行巻 P.190),(信巻 P.266),(証巻 P.335)
良知 (行巻 P.187),(行巻 P.197),(化巻 P.383)

なお、明知(あきらかに知んぬ)という表現も3例ある。

明知 (行巻 P.186),(信巻 P.230),(真巻 P.370)

故知(ゆゑに知んぬ)の自釈の用例は、

故知 (総序 P.131),(信巻 P.253),(真巻 P.371),(真巻 P.372)

である。

仏教では知るということを、ともいうのだが『涅槃経』には、法を認知することを「」といい、「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり」(真巻 P.356)とある。いわば眼見とは、眼で見るように体験という個別(特殊)的な経験をいい、聞見とは法を聞くことによって心が開かれ法を信知することをいふのであろう。
そのような意味に於いて「まことにしんぬ」や「あきらかに知んぬ」という表現は、自己の体験ではなく「聴聞」によって仏願の生起本末の由来を知らされることであった。これを「信知、真知、誠知、良知(まことにしんぬ)」といふ。仏教では身・心だけではなく、身・口・意の「三業」をたて、身・心(意)の他に、口業(語業)を重視する。法は言葉によって伝えられるからである。特に信を重んじる浄土真宗では言葉(語業)を大切にするので「ただ仏法は聴聞にきはまる」(一代記 P.1292)といふ。

聞見
聞即信
聴聞
三哉