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きよらなか信心の意で、他力信心のこと。衆生の[[顛倒]]・うそいつわりの心からではなく、[[真如]]にかなった[[阿弥陀仏]]の清らかな[[願心]]から起こり、衆生に回向された[[信心]]であるからこのようにいう。<br>
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とある。(浄土真宗辞典)
 
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と一念の浄信とあるのが出拠である。「信」とは梵語プラサーダ(Prasada)の漢訳で、「信心」「信楽」「浄信」などと翻訳された。「濁った心を浄化するはたらき」「心をしずめる」「清らかな心にならしめる」という意味を持つ。仏陀の教えを聞くことによって、心が清らかに澄みわたることをいう。<br />
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と一念の浄信とあるのが出拠である。御開山は乃至の語を略しておられる。「信」とは梵語プラサーダ(Prasada)の漢訳で、「信心」「信楽」「浄信」などと翻訳された。「濁った心を浄化するはたらき」「心をしずめる」「清らかな心にならしめる」という意味を持つ。仏陀の教えを聞くことによって、心が清らかに澄みわたることをいう。<br />
法然聖人は、本願成就文の[[一念]]([[大経下#no22|大経 P.41]]) を本願文の「[[乃至十念]]」の意から、行に信を摂した[[行の一念]]であるとされていた。しかし御開山は「あらゆる衆生、その名号を聞きて、'''信心'''歓喜せんこと乃至一念せん(諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」の信心歓喜の信心の語から、本願成就文の[[一念]]の文は「信の一念」に親しいとされたのであった。そして、この『無量寿如来会』の「一念の浄信」の語から本願成就文の[[一念]]は、本願力回向の'''「[[信の一念]]」'''を意味する言葉であると御開山は領解されたのである。
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法然聖人は、本願成就文の[[一念]]([[大経下#no22|大経 P.41]]) を本願文の「[[乃至十念]]」の意から、行に信を摂した'''「[[行の一念]]」'''であるとされていた。しかし御開山は「その名号を聞きて、'''信心'''歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」の信心歓喜の信心の語から、本願成就文の[[一念]]の文は'''「[[信の一念]]」'''に親しいとされたのであった。そして、この『無量寿如来会』の「一念の浄信」の語から本願成就文の[[一念]]は、本願力回向の'''「[[信の一念]]」'''を意味する言葉であると御開山は領解されたのである。
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『倶舎論』巻四では、信は清浄の義とする。→[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1558_.29.0019a28.html 『倶舎論』大善地法]
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2024年8月21日 (水) 17:40時点における最新版

じょうしん

Ⅰ →補註11 (浄文 P.478)

Ⅱ 『交名牒(きょうみようちょう)』には「七条次郎入道洛中居住弟子」とある。また『末灯鈔』の諸本には「高田門人」と伝えるものもある。(消息 P.778)

Ⅲ 第二十通の浄信との同異不明。(消息 P.794)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

浄信

きよらなか信心の意で、他力信心のこと。衆生の顛倒・うそいつわりの心からではなく、真如にかなった阿弥陀仏の清らかな願心から起こり、衆生に回向された信心であるからこのようにいう。
浄土文類聚鈔』には、

「浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願より出でたり」(p.480)

とある。(浄土真宗辞典)

浄信という語の出拠は『無量寿経』の成就文の

「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」(大経 P.41)

の一念を、異訳の『無量寿如来会』では、

「無量寿如来の名号を聞きて、乃至、能く一念の浄信を発して歓喜愛楽し」(如来会)(信巻 P.213)

と一念の浄信とあるのが出拠である。御開山は乃至の語を略しておられる。「信」とは梵語プラサーダ(Prasada)の漢訳で、「信心」「信楽」「浄信」などと翻訳された。「濁った心を浄化するはたらき」「心をしずめる」「清らかな心にならしめる」という意味を持つ。仏陀の教えを聞くことによって、心が清らかに澄みわたることをいう。
法然聖人は、本願成就文の一念(大経 P.41) を本願文の「乃至十念」の意から、行に信を摂した行の一念であるとされていた。しかし御開山は「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」の信心歓喜の信心の語から、本願成就文の一念の文は信の一念に親しいとされたのであった。そして、この『無量寿如来会』の「一念の浄信」の語から本願成就文の一念は、本願力回向の信の一念を意味する言葉であると御開山は領解されたのである。

『倶舎論』巻四では、信は清浄の義とする。→『倶舎論』大善地法

彼法是何。
彼の法は、これ何ぞ。
頌曰、
頌に曰く、
信及不放逸 輕安捨慚愧
信と、および不放逸と、軽安と、捨と慚と愧と、
二根及不害 勤唯遍善心
二根とおよび不害と、勤とは、ただ善心にのみ遍ず。
論曰。如是諸法唯遍善心。
論じて曰く。是の如き諸法は、唯、善心に遍ず。
此中信者。令心澄淨。
この中に信は、心をして澄浄ならしむ
有説。於諦實業果中現前忍許故名爲信。
有るが説く。〔四〕諦、〔三〕宝、業〔因〕、果の中に於いて、現前に忍許するが故に名けて信となす。→国訳
信の一念
信心
仰信
行の一念
五願開示

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