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「実相身」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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じっそうしん [[実相身]]  いもつしん [[為物身]]
 
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 [[真如]][[実相]]にかなった[[自利]]円満の仏身。これに対して、[[衆生]](物)のために[[利益]]をほどこす[[利他]]円満の仏身を[[為物身]]という。[[曇鸞]]は、この[[実相身]]・[[為物身]]によって[[阿弥陀仏]]の性格を明らかにしている。それは阿弥陀仏の仏身の全体を指して[[実相身]]とし、同時にまた[[為物身]]とするもので、阿弥陀仏の正覚は単に仏みずからのためのものではなく、衆生救済のために成就されたものであることを示している。→[[不如実修行]]、[[七祖-補註1]]。(浄土真宗辞典)
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 [[真如]][[実相]]にかなった[[自利]]円満の仏身。これに対して、[[衆生]](物)のために[[利益]]をほどこす[[利他]]円満の仏身を[[為物身]]という。[[曇鸞]]は、この[[実相身]]・[[為物身]]によって[[阿弥陀仏]]の性格を明らかにしている。それは[[阿弥陀仏]]の仏身の全体を指して[[実相身]]とし、同時にまた[[為物身]]とするもので、[[阿弥陀仏]]の[[正覚]]は単に仏みずからのためのものではなく、衆生救済のために成就されたものであることを示している。→[[不如実修行]]、[[七祖-補註1]]。(浄土真宗辞典)
 
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『論註』には、なんまんだぶを称えても「無明なほありて所願を満てざる」ことを、如来が[[実相身]]であり、'''[[為物身]]'''であることを知らないからであるとする。御開山の意によれば、ここでの無明は本願を疑い仏智を明らかに信じない[[疑無明]]をいう。→[[無明]]
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: 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。
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:しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ[[実相身]]なり、これ'''[[為物身]]'''なりと知らざればなり。 ([[浄土論註 (七祖)#P--103|論註 P.103]])
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:→[[如実修行相応]]
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:→[[二種法身]]

2024年7月11日 (木) 09:56時点における最新版

じっそうしん 実相身  いもつしん 為物身

 真如実相にかなった自利円満の仏身。これに対して、衆生(物)のために利益をほどこす利他円満の仏身を為物身という。曇鸞は、この実相身為物身によって阿弥陀仏の性格を明らかにしている。それは阿弥陀仏の仏身の全体を指して実相身とし、同時にまた為物身とするもので、阿弥陀仏正覚は単に仏みずからのためのものではなく、衆生救済のために成就されたものであることを示している。→不如実修行七祖-補註1。(浄土真宗辞典)

『論註』には、なんまんだぶを称えても「無明なほありて所願を満てざる」ことを、如来が実相身であり、為物身であることを知らないからであるとする。御開山の意によれば、ここでの無明は本願を疑い仏智を明らかに信じない疑無明をいう。→無明

 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。

{中略}

しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ実相身なり、これ為物身なりと知らざればなり。 (論註 P.103)
如実修行相応
二種法身