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「よばうて」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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よばふ。<br />
 
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「よぶ」の未然形に反復継続の助動詞「ふ」が付いたものから、何度も呼〔喚〕ぶ。呼〔喚〕びつづけるという意。 <br />
 
「よぶ」の未然形に反復継続の助動詞「ふ」が付いたものから、何度も呼〔喚〕ぶ。呼〔喚〕びつづけるという意。 <br />
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欲生釈には、
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: 次に[[欲生]]といふは、すなはちこれ如来、[[諸有]]の[[群生]]を[[招喚したまふの勅命]]なり。 ([[信巻本#no39|信巻 P.241]])
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と、ある。<br />
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『往生要集』中巻に、
 
『往生要集』中巻に、
 
:「阿弥陀仏、観世音・大勢至と、大願の船に乗りて生死の海に汎(うか)びて、この娑婆世界につきて、衆生を'''呼喚'''して大願の船に上(の)せて、西方に送り着けしめたまふ。 もし衆生の、あへて大願の船に上(の)らば、ならびにみな去ることを得。 これはこれ往きやすきなり」([[往生要集中巻 (七祖)#P--974|要集 P.974]])
 
:「阿弥陀仏、観世音・大勢至と、大願の船に乗りて生死の海に汎(うか)びて、この娑婆世界につきて、衆生を'''呼喚'''して大願の船に上(の)せて、西方に送り着けしめたまふ。 もし衆生の、あへて大願の船に上(の)らば、ならびにみな去ることを得。 これはこれ往きやすきなり」([[往生要集中巻 (七祖)#P--974|要集 P.974]])
とある。御開山はこの文を和讃にされておられた。
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とある。御開山はこの文の元である迦才の『浄土論』 巻下の文を和讃にされておられた。
  
 
:弥陀・観音・大勢至
 
:弥陀・観音・大勢至
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: 生死のうみにうかみつつ
 
: 生死のうみにうかみつつ
 
: 有情を[[よばうて]]のせたまふ ([[正像末和讃#no53|正像 P.609]])
 
: 有情を[[よばうて]]のせたまふ ([[正像末和讃#no53|正像 P.609]])
 
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:→[[無量清浄覚経に…]]
 
:→[[本願招喚の勅命]]
 
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*[[六字釈]]の[[招喚]]の[[左訓]]に、マネク ヨバフとある。
 
*[[六字釈]]の[[招喚]]の[[左訓]]に、マネク ヨバフとある。

2024年9月7日 (土) 15:13時点における最新版

  呼〔喚〕びつづけて。(正像 P.609)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

よばふ。
「よぶ」の未然形に反復継続の助動詞「ふ」が付いたものから、何度も呼〔喚〕ぶ。呼〔喚〕びつづけるという意。
欲生釈には、

 次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有群生招喚したまふの勅命なり。 (信巻 P.241)

と、ある。

『往生要集』中巻に、

「阿弥陀仏、観世音・大勢至と、大願の船に乗りて生死の海に汎(うか)びて、この娑婆世界につきて、衆生を呼喚して大願の船に上(の)せて、西方に送り着けしめたまふ。 もし衆生の、あへて大願の船に上(の)らば、ならびにみな去ることを得。 これはこれ往きやすきなり」(要集 P.974)

とある。御開山はこの文の元である迦才の『浄土論』 巻下の文を和讃にされておられた。

弥陀・観音・大勢至
 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ
 有情をよばうてのせたまふ (正像 P.609)

無量清浄覚経に…
本願招喚の勅命
御開山の六字釈(本願寺派原典版より)