「善悪二業に…無数なる」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2018年3月11日 (日) 04:24時点における最新版
ぜんあくにごうに…むしゅなる
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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七祖聖教 補 注 |
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七祖-補註1 阿弥陀仏 |
七祖-補註2 往生・浄土 |
七祖-補註3 機・衆生 |
七祖-補註4 教 |
七祖-補註5 行 |
七祖-補註6 業・宿業 |
七祖-補註7 信 |
七祖-補註8 旃陀羅 |
七祖-補註9 他力 |
七祖-補註10 女人・根欠… |
七祖-補註11 菩薩 |
七祖-補註12 本願 |
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- 6 業・宿業
業については、これまでも真宗学や仏教学・宗教学はいうまでもなく、哲学・倫理学・民俗学などさまざまな方面から論じられてきた。
また、仏教思想のなかで業思想が、その根幹に位置し、深遠な仏教哲理の一分野であって、膨大な体系を持つ教理であるとも主張されてきた。そして、宿業・宿縁業・罪業・業障・業繋・業縁・善悪業・業道など、種々の語を用いて業が説かれている。
業とは、梵語カルマン (karman) の漢訳であり、広い意味の行為のことで、おこない、はたらきのことである。通常、身・口・意の三業に分ける。また行為の結果、すなわち「善因楽果、悪因苦果」といわれるように、業による報いとしての業報の意味も含めて用いられる。
元来仏教の業は、仏教以前に用いられていた宿命論的な因果一貫の業論ではなく、縁起の立場に立つ業論である。それは衆縁によって成り立つ自己を、縁起的存在であるとみ、固定的な実体観を否定する無我の立場であるとともに、主体的な行為によって真実の自己を形成すべきことを強調する立場であった。
七祖の上で業の用法をうかがうと、三つの用法がある。第一は、「一には業力、いはく、法蔵菩薩の出世の善根、大願業力の所成なり」(論註・下 一〇八)とか、「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」(玄義分 三〇一)とある、阿弥陀仏の救済力としての業である。第二には、「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」(散善義 四五七) といわれる、「機の深信」の内容として信知せられる業(罪業深重の業)である。これは、阿弥陀仏の大智大悲の光明に映し出されてあきらかに知らされた現実の自己は、無始以来、流転して迷界を出るてがかりのない煩悩具足の凡夫とあらわされたものである。第三には、「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」(散善義 四六三) といわれる、往生の行業としての業である。親鸞聖人の業の用法も、基本的には七祖を受けていかれたものとみることができるが、ただし、往生の行業については、これを如来回向とみなされている。
従来の業に対する誤解は、その第二の用法にみられる「罪業」とか「業障」という言葉だけが、あるいはまた、罪業深重とされる現実の自己が、限りない過去とつながっているという宗教的な見方を強調するものとして用いられる「宿業」という言葉が、機の深信と切り離されて取り上げられたところから生ずるものである。
例えば、「この謗正法によるがゆゑに、この人現身のなかに諸悪・重病・身根不具・聾盲瘖瘂・水腫・鬼魅を来致して、坐臥安からず、生を求むるに得ず、死を求むるに得ず。あるいはすなはち死するに至りて地獄に堕し、八万劫のうちに大苦悩を受く。(中略)後に人となることを得れども、つねに下処に生れ、百千万世にも自在を得ず」(安楽集・下 二九二)とか、「この悪業によりて、六千百千歳のうちに阿鼻地獄に生れき。(中略)かしこより没しをはりて、還りて人となることを得て、五百世のうちに生盲にして目なかりき。在々の所生に正念を忘失し善根を障礙しき。(中略)つねに辺地に生れて、貧窮下劣なりき」(往生要集・中 一〇〇七) などと説かれているものを、「因果応報」の思想を強調して固定的な因果論を説き、現実社会の貴賎、貧富や、身心の障害は、その人個人の過去世の行い (=宿業) の報いによるものであることを教えたものと解説してきた。このような理解は、貴賎や身心の障害に関わる差別を助長し、それによって、政治的につくりあげられた封建的な身分差別までも、すべて個人の行いの報い(=業報)であるとして社会的身分制度を正当化するような役割を果し、また一方では被差別、不幸の責任もその人個人に転嫁してきたのである。
このような業・宿業の理解は、江戸時代の説教などにみられるばかりでなく、近年までつづいている。すなわち、仏教は因果応報という天地宇宙の真理を説くもので、自己の幸、不幸は、あくまで自己の負うべきもので、いかなる不幸や逆境に遭遇しても愚痴や不平をいわず、他人をうらやまず、その原因は自己にあることを知り懴悔して自己の欠点をあらため、善き因をまくようにしなければならないというふうに解説するものも少なくなかった。
しかし現実の幸、不幸の原因のすべてを個人の過去世の行いのせいにし、不幸をもたらしたさまざまな要因を正しく見とどけようとしないことはむしろ縁起の道理にそむく見解である。歴史的社会的につくられた矛盾や差別によってもたらされた不幸の責任を、被害者や差別されている本人に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらせてしまうようなことがあってはならない。