「久遠実成」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | 御開山の仏身観は『論註』の<kana>[[法性]](ほっしょう)</kana>・方便の二種<kana>法身(ほっしん)</kana>として阿弥陀仏を領解されておられる。法性法身とは、さとりそのものである法性<kana>[[真如]](しんにょ)</kana>を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超えた認識を超えたものであり、[[方便法身]]とは、「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり」([[一多#P--690|一多 P.690]]) | + | 御開山の仏身観は『論註』の<kana>[[法性]](ほっしょう)</kana>・方便の二種<kana>法身(ほっしん)</kana>として阿弥陀仏を領解されておられる。法性法身とは、さとりそのものである法性<kana>[[真如]](しんにょ)</kana>を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超えた認識を超えたものであり、[[方便法身]]とは、「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり」([[一多#P--690|一多 P.690]])の阿弥陀如来だとされておられる。「浄土和讃」で、 |
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2020年1月17日 (金) 17:48時点における版
くおん-じつじょう
久遠劫の過去世において実に
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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御開山の仏身観は『論註』の
- 弥陀成仏のこのかたは
- いまに十劫とときたれど
- 塵点久遠劫よりも
- ひさしき仏とみえたまふ (浄土 P.557)
と、かって学んだ天台の塵点久遠という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という大乗仏教の理を示しておられる。
→如来