「一願建立」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | :一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。([[観経疏 玄義分 (七祖)#一々の願にのたまわく|玄義分 P.326]]) | + | :一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。([[観経疏 玄義分 (七祖)#一々の願にのたまわく|玄義分 P.326]])、([[真巻#no30|真巻 P.364]]) |
− | とされて、四十八願のすべてに称名を誓う[[第十八願]]の意があるとされておられた。四十八願は[[第十八願]] | + | とされて、四十八願のすべてに称名を誓う[[第十八願]]の意があるとされておられた。四十八願は[[第十八願]]に総摂されるとみておられたのであった。この立場を「一願建立」といふ。この意味で善導大師は四十八願という語によって以下のように第十八願を示されることがある。 |
:二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。 ([[観経疏 散善義 (七祖)#no5|散善義 P.457]]) | :二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。 ([[観経疏 散善義 (七祖)#no5|散善義 P.457]]) | ||
2019年8月21日 (水) 09:52時点における版
善導大師は「玄義分」で、
とされて、四十八願のすべてに称名を誓う第十八願の意があるとされておられた。四十八願は第十八願に総摂されるとみておられたのであった。この立場を「一願建立」といふ。この意味で善導大師は四十八願という語によって以下のように第十八願を示されることがある。
- 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。 (散善義 P.457)
法然聖人は、この善導大師の「一願建立」の意を承けて『選択本願念仏集』で、第十八願を「王本願」といわれた。
- ゆゑに知りぬ、四十八願のなかに、すでに念仏往生の願(第十八願)をもつて本願中の王となすといふことを。 (選択集 P.1228)
この第十八願を「本願中の王」とされるところから、第十九願、第二十願は第十八願の王本願に随伴する随臣のような願であり、第十九願は第十八願の念仏の行者に来迎の利益を誓った願であるとみておられた(三部経大意)。当時の浄土教徒の最大の願いである光り輝く阿弥陀仏の臨終来迎を第十九願の「寿(いのち)終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」(*) の願文にみておられたのである。
この一願建立説に対して「第十八願」「第十九願」「第二十願」の三願を、生因三願として考察し、浄土教内のそれぞれ別の法門であるとして「願海真仮論」を展開し、より鮮明に王本願である「第十八願」の意を解明されたのが御開山であった。このように三願に真仮をみられたのは御開山が最初であった。
御開山は、この善導・法然の一願建立である「念仏往生の願」を承けられ「信巻」大信釈で第十八願を、
と「念仏往生の願」とされておられた。