「念仏証拠門のなかに…」の版間の差分
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2018年1月29日 (月) 13:53時点における版
- 梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』から
六、結勧の文
[本文]
- しかれば、それ楞厳の和尚の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化巻 P.381) (行巻 P.184)
[講讃]
(一) 別発一願の開顕
上来第十九願の意を述べ、最後に「往生要集』によって報化二土を弁立し、専修と雑修の得失を明らかにされたから、『往生要集』大文第八念仏証拠(「七祖篇」一〇九八頁)によって第十八願に帰して念仏すべきことを結勧されるのである。けだし従真垂仮された権仮方便の本意は、あくまでも従仮入真させるということに終帰していくからである。「念仏証拠門」には、懐感禅師の『群疑論』を拠り所にしながら、念仏が往生の業因であることを経論の十文をあげて証明されているが、そのなかの第三文と第四文である。
- 三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
- 四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。(要集 P.1098)
といわれているのを取意して挙げられたものである。第三文は、第十八願取意の文であり、第四文は『観経』下々品を取意された文である。第三文は『群疑論』五(大正蔵』四七・六〇頁)の文をほぼそのまま引用されたものであるが、第四文は、「『観径』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ」[1]といわれていた。それを源信僧都は「『観経』に極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」といい換えられたのである。 「極重の悪人」というのであるから、単に下品の三生のことではなく下品下生を指していた。そして「無他方便」という言葉で、本願の念仏以外にさとりを開く手がかりのない者ということを表しているから、善導大師のいわゆる機の深信を表す言葉になっていた。
こうした源信僧都の言葉を受けて、親鸞聖人はさらに徴妙に表現を変えていかれる。まず「四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく」といわれていたのを、「第十八の頭は別願のなかの別願なりと顕開したまへり」と註釈的な引用をされている。第十八願は別願のなかの別願なりといわれた、初めの別願とは四弘誓願のような菩薩の通願に対するから、四十八願を指していた。しかし第十八頭が、その別願の中の別願であるということによって、四十七願は諸仏と同じ水準の別願であって、そこには第十九願、第二十願、第二十八願等の方便願も含まれていることを表し、そうした諸仏通相の別願を超えて、 一切の衆生を善悪・賢愚の隔てなく平等に救うという、諸仏がなしえなかった救済を実現された誓願が第十八願であることを強調する言葉と受け取っていかれたのであった。 この第十八願があるから四十八願も超世無上の誓願といわれるのである。そしてまたこの無上の誓願によって選定された念仏であるから、極善最上の本願他力の行であって、その極善最上の法を『観経』では、極悪最下の機に与えて真実報土へと迎え取られていくことを顕示されていく。
(二) 顕機の経意
それを表しているのがつぎの「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」という文であった。この文をよく見ると「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」といわれていた『往生要集』の文に、「定散の諸機は」という文言を挿入されていることがわかる。 これは親鸞聖人が『観経』全体を「顕機の経」 (機の真実を顕わす経)と読み取られていたからである。善導大師に依れば『観経』は韋提希夫人の要請に応じてまず定善を説き与えられたが、さらに定善に堪えられない機のために釈尊は慈悲をもって散善を自開された(唯請定善、自開散善)(*)といわれていた。その仏意を徹底していくと定善にも散善にも堪えられない無他方便の機(定散不堪の機)のためには、定善でも散善でもない本願の行(非定非散の他力念仏)を与えて救わねばならないことを表していた。それが下々品の苦逼失念の機に与えられた口称念仏であった。そしてそれこそ『観経』の極意であると親鸞聖人は読み取っていかれたのである。 その意を表すために、 『往生要集』には書かれていなかった「定散の諸機は」という言葉を挿入し、定散の諸機は、極重の悪人であるという自身の真相を信知して第十八願の行である非定非散の称名を信受せよと勧励された文であると見ていかれたのであった。 親鸞聖人は『唯信紗文意』(七一六頁)に、下々品の念仏を釈して、
- 「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。 (唯文 P.716)
といい、ここに「こころに弥陀を念じたてまつらずは」といわれたのは、臨終の行者が、苦しさのあまり、心もそぞろになって、心底から如来を有り難く尊く思う力もなく、明晰な意思力もはたらかないままで念仏していることを表している。未来の生処を決定する業力は、はっきりとした意思(思)を伴った身業、口業でなければならないのであるから、この下々品の念仏は善行としての価値のない行であるといわねばならない。その様な行によって往生したということは、行者の思いによって行になったのでも、ロのはたらきによって行になったのでもなくて、南無阿弥陀仏そのものが、往生の行であるような本願の行であったからである。それを定善でもなく散善でもない、本願他力の行というのである。『観経』は、自力に執着している定散の諸機に、定善と散善という厳しい自力の行法を説き与えることによって、還って自身は定散諸行に堪えられない、無他方便の機であることを信知させて自力のはからいを捨てさせ、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」と勧励して他力の救いに心を開かせる経だったのである。それを「顕機の経」といい、その仏意を知らせるために第十九願釈の最後に、『往生要集』の文を引釈し、第十九願開説の『観経』の仏意を結勧されたのである。
それがまた「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし」という結びの言葉の意味であった。すなわち仏の方便調育の教化によって、わが身の程を知らされ、驕慢の心を捨て、懈怠の心を離れて本願力に帰すべきことを勧められているのである。ところでこの言葉は、後に「三時の開遮」を明かされるとき、「しかれば、穢悪濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ」(四一七頁)といわれた文章と対応していた。時と機と法とが相応することによってのみ、まことの赦いが成するからである。
なお親鸞聖人が『往生要集』の別発一願の釈や極重悪人無他方便の釈、それに報化二土の弁立などを、源信僧都の釈功として取り上げられたのには、源信僧都の師の慈恵大師良源の『九品往生義』(『浄土宗全書』一五・一八頁)の第十八願観や称名観、往生観との違いを評価されたからであろう。称名観や往生観はさておいて、良源僧正は、第十八願は五逆と誹謗を犯していない凡夫の往生を誓った願であるが、その往生業は深妙ではないから臨終の来迎が誓われていない。
それに引き替え第十九願に臨終来迎が誓われているのは、菩提心を発し、諸の功徳を修した勝れた行者であるからであって、当然第十八顧より第十九願の方が深妙な往生業が誓われている。なお第二十願は、既に決定業を持っていて順次生では決して往生できない者を、順後生に往生させるという三生果遂を誓った願であると見ていた。したがって往生業を誓った三願の中で、最も勝れているのは、第十九願であって、第十八願がそれに次ぎ、第二十願が最低の往生法が誓われていると理解されていたのである。こうした第十九願中心の本願観を転換して、第十八願中心の四十八願観を樹立した日本最初の祖師が源信僧都であると認め、僧都を浄土真宗伝持の七高僧の一人として選定されたのが親鸞聖人であった。