操作

「垂名示形」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

12行目: 12行目:
 
とある、法性法身が名となり示現し、認識しうる形としての方便法身を論ずる場合である。真実(真如)は真実であるかぎり凡夫とは没交渉である、真実は真実だけでは真実ではない、真実は真実ならざるものを通して真実をあらわすから真実といえるのであった。
 
とある、法性法身が名となり示現し、認識しうる形としての方便法身を論ずる場合である。真実(真如)は真実であるかぎり凡夫とは没交渉である、真実は真実だけでは真実ではない、真実は真実ならざるものを通して真実をあらわすから真実といえるのであった。
 
:→[[果分不可説]]
 
:→[[果分不可説]]
:→[[方便]]
+
:→[[ノート:方便]]
 
:→[[親鸞聖人の仏身論]]
 
:→[[親鸞聖人の仏身論]]
 
:→[[amida:真仮論の救済論的意義|真仮論の救済論的意義]]
 
:→[[amida:真仮論の救済論的意義|真仮論の救済論的意義]]

2018年3月8日 (木) 04:07時点における版

すいみょう-じぎょう  漢音では、すいめい-じけい

 垂名示形(名を垂れ形を示す)。名を垂れるとは、一切衆生を済度しようとする法蔵菩薩の願心が、南無阿弥陀仏という名のりとなって十方衆生に称えられ聞かせしめられんとすること。形を示すとは、一如より来生した法蔵菩薩の誓願が成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。
『一念多念証文』には、

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを南無不可思議光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。(一多 P.690-P.691)

とあり、法蔵菩薩が「無碍のちかひ」を建立して阿弥陀仏となられた「仏願の生起本末」を説かれている。この「一如宝海よりかたちをあらはして」が示形であり「法蔵菩薩となのりたまひて」南無阿弥陀仏を成就され名号(名のり)としての活動相を垂名と真宗の先達は示されたのであった。なお同趣旨の文が『唯信鈔文意』極楽無為涅槃界釈(唯文 P.710)にもある。
御開山はこの垂名示形の意を、

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。

と、可聞可称の〔なんまんだぶ〕と真如法性から垂名示形しての名号による衆生済度の法を示されたのであった。
なお法性法身方便法身について垂名示形を論ずる場合もある。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。(唯文 P.710)

とある、法性法身が名となり示現し、認識しうる形としての方便法身を論ずる場合である。真実(真如)は真実であるかぎり凡夫とは没交渉である、真実は真実だけでは真実ではない、真実は真実ならざるものを通して真実をあらわすから真実といえるのであった。

果分不可説
ノート:方便
親鸞聖人の仏身論
真仮論の救済論的意義
意識の形而上学