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「回して」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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::「人、道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。([[信巻本#P--226|信巻P.226]])
 
::「人、道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。([[信巻本#P--226|信巻P.226]])
 
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の「もろもろの行業を回して」の<回>が第二版では、回転、回捨の意で、自力をひるがえす、となっている。これはこれでよいのだが、釈尊の[[発遣]]と弥陀の[[招喚]]以前に捨自帰他(自力を捨てて他力に帰す)があるように誤解されやすい。譬喩であるから厳密に解釈することは返って譬喩の意図を誤解することにもなるのだが、信なくしてお聖教を拝読しようとするから文字に拘泥して本質を窺がえない者もいるのであろう。<br />
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の「もろもろの行業を回して」の<回>が第二版では、回転、回捨の意で、自力をひるがえす、となっている。これはこれでよいのだが、釈尊の[[発遣]]と弥陀の[[招喚]]以前に捨自帰他(自力を捨てて他力に帰す)があるように誤解されやすい。譬喩であるから厳密に解釈することは返って譬喩の意図を誤解することにもなるのだが、文字に拘泥して本質を窺がえない者もいるのであろう。<br />
  
 
なお『観経疏』での「回して」の用例では全て回向の意味であり<ref>「回して」の用例:<p style="word-wrap: break-word;">
 
なお『観経疏』での「回して」の用例では全て回向の意味であり<ref>「回して」の用例:<p style="word-wrap: break-word;">
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:しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の「要門」を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の「弘願」を顕彰したまふ。
 
:しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の「要門」を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の「弘願」を顕彰したまふ。
 
:その'''[[要門]]'''とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。
 
:その'''[[要門]]'''とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。
:'''[[弘願]]'''といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。{中略}
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:'''[[弘願]]'''といふは『大経』に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。{中略}
 
:仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。 かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。 ([[観経疏 玄義分 (七祖)#youmon|玄義分 P.300]])
 
:仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。 かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。 ([[観経疏 玄義分 (七祖)#youmon|玄義分 P.300]])
 
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と『観経』には釈尊の説かれた「要門」と阿弥陀仏の「弘願」の二門があらわしてあるという指示からであった。<br />
 
と『観経』には釈尊の説かれた「要門」と阿弥陀仏の「弘願」の二門があらわしてあるという指示からであった。<br />
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:次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を[[招喚したまふの勅命]]なり。([[信巻本#P--241|信巻 P.241]])
 
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と「招喚」とされておられるのは、「招喚」の語は白道釈からであろうが義は「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」という弘願にあるのであろう。
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と「招喚」とされておられるのは、「招喚」の語は白道釈からであろうが義は「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」という『大経』の弘願にあるのであろう。
  
 
その意を、欲生釈で、
 
その意を、欲生釈で、
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:ここをもつて本願の欲生心成就の文、『経』にのたまはく、「至心回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。
 
:ここをもつて本願の欲生心成就の文、『経』にのたまはく、「至心回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。
 
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本願成就文を引いて『観経』の回向発願の意を『大経』の阿弥陀仏の回向に転換されたのであった。<br />
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と、本願成就文の回向をを引いて『観経』の回向発願の意を『大経』の阿弥陀仏の本願力回向に転換されたのであった。<br />
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それを『唯信鈔文意』では、
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とされて、『観経』の三心は[[定散二機]]の心である方便の三心とされたのであった。
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そして、白道釈を自釈し、
 
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と、「'''白'''とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の'''路'''なり」の白路は自力少善の白路と示されておられる。<br />
このように回向発願心釈に二義を見られるのは、法然聖人の『[[三心料簡および御法語]]』に示された「白道事」[[三心料簡および御法語の訓読#no1-1|(*)]] の解釈を忠実に受け継がれているということであろう。もちろん、御開山は本願力回向の宗義に立たれたから「すなはちもろもろの行業を回して」の文は、註釈版の脚注にあるように「回転、回捨の意で、自力をひるがえす」の意で読まれたのであった。この意味で白道釈には欲生我国(我が国に生まれんと欲(おも)へ)という[[本願招喚の勅命]]に'''[[信順]]'''することであった。
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このように回向発願心釈に二義を見られるのは、法然聖人の『[[三心料簡および御法語]]』に示された「白道事」[[三心料簡および御法語の訓読#no1-1|(*)]] の解釈を忠実に受け継がれているということであろう。もちろん、御開山は『大経』の本願力回向の宗義に立たれたから「すなはちもろもろの行業を回して」の文は、註釈版の脚注にあるように「回転、回捨の意で、自力をひるがえす」の意で読まれたのであった。この意味で白道釈には欲生我国(我が国に生まれんと欲(おも)へ)という[[本願招喚の勅命]]に'''[[信順]]'''することであった。
  
 
:→[[信順]]
 
:→[[信順]]

2018年12月17日 (月) 16:34時点における版

回向発願心の白道釈に、

言人行道上直向西者 即喩廻諸行業 直向西方也。
「人、道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。(信巻P.226)

の「もろもろの行業を回して」の<回>が第二版では、回転、回捨の意で、自力をひるがえす、となっている。これはこれでよいのだが、釈尊の発遣と弥陀の招喚以前に捨自帰他(自力を捨てて他力に帰す)があるように誤解されやすい。譬喩であるから厳密に解釈することは返って譬喩の意図を誤解することにもなるのだが、文字に拘泥して本質を窺がえない者もいるのであろう。

なお『観経疏』での「回して」の用例では全て回向の意味であり[1]、三心釈の結文に、

「またこの三心はまた通じて定善の義を摂す、知るべし」(信巻 P.227)

とあることから、白道釈の、「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」(信巻P.226) の「回して」は善導大師の当面の意では定善散善の、もろもろの行業を回向しての意味であろう。このように、『観経』の三心は、念仏のみならず定善散善の回向とも組み合うので、法然聖人は『選択本願念仏集』「三心章」で、

この三心はじてこれをいへば、もろもろの行法に通ず。してこれをいへば、往生の行にあり。いま通を挙げて別を摂す。意すなはちあまねし。(選択集 P.1249)

といわれていた。「通を挙げて別を摂す」とは諸行往生の願生心にずる三心を挙げて、しかもして弘願の安心に収めるという意味で、仏願に順ずれば念仏の三心にあることをあらわそうとされた。
このように三心釈に二義をみられたのは、玄義分で、

しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の「要門」を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の「弘願」を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。
弘願といふは『大経』に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。{中略}
仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。 かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。 (玄義分 P.300)

と『観経』には釈尊の説かれた「要門」と阿弥陀仏の「弘願」の二門があらわしてあるという指示からであった。

御開山は、欲生釈で、

次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。(信巻 P.241)

と「招喚」とされておられるのは、「招喚」の語は白道釈からであろうが義は「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」という『大経』の弘願にあるのであろう。

その意を、欲生釈で、

ここをもつて本願の欲生心成就の文、『経』にのたまはく、「至心回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。

と、本願成就文の回向をを引いて『観経』の回向発願の意を『大経』の阿弥陀仏の本願力回向に転換されたのであった。
それを『唯信鈔文意』では、

『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。(唯文 P.714)

とされて、『観経』の三心は定散二機の心である方便の三心とされたのであった。

そして、白道釈を自釈し、

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。(信巻 P.244)

と、道と路に分判され、『愚禿鈔』下の回向発願心釈では、「回向発願心というは、二種あり」(愚禿下 P.531)と、自力と組み合った回向発願心と、本願の招喚信順する如来から回向される回向発願心を区別されておられる。そして、第一釈の自力の回向発願心は「化巻」(化巻 P.387)で、第二釈の他力の回向発願心は「信巻」(信巻 P.221) で分引されておられた。同じく『愚禿鈔』下での「白道四五寸」でも、

「白道四五寸」といふは、「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。(愚禿下P.537)

と、「とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善のなり」の白路は自力少善の白路と示されておられる。
このように回向発願心釈に二義を見られるのは、法然聖人の『三心料簡および御法語』に示された「白道事」(*) の解釈を忠実に受け継がれているということであろう。もちろん、御開山は『大経』の本願力回向の宗義に立たれたから「すなはちもろもろの行業を回して」の文は、註釈版の脚注にあるように「回転、回捨の意で、自力をひるがえす」の意で読まれたのであった。この意味で白道釈には欲生我国(我が国に生まれんと欲(おも)へ)という本願招喚の勅命信順することであった。

信順
もし一心少けぬれば

  1. 「回して」の用例:

    301,313,314,315,452,453,455,469,473,475,476,479,481,482,484,488