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「難思の弘誓」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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難思と無礙の文は対偶(〈<kana>四六(しろく)</kana><kana>駢儷体(べんれいたい)</kana>〉の四字と六字によって、対句表現を行う文体)を用いた対句になっており、対句によって〈難思弘誓〉と〈無礙光明〉の両句は一体の意味をあらわそうとされたのであろう。
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難思と無礙の文は対偶(〈[[EXC:四六駢儷体|<kana>四六(しろく)</kana><kana>駢儷体(べんれいたい)</kana>]]〉の四字と六字によって、対句表現を行う文体)を用いた対句になっており、対句によって〈難思弘誓〉と〈無礙光明〉の両句は一体の意味をあらわそうとされたのであろう。
 
:難思弘誓 度難度海大船
 
:難思弘誓 度難度海大船
 
::難思の弘誓は難度海を度する大船、
 
::難思の弘誓は難度海を度する大船、
 
:無礙光明 破無明闇恵日。
 
:無礙光明 破無明闇恵日。
 
::無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
 
::無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
『教行証文類』の最初の注釈書である存覚上人の『六要抄』では、難思と無礙の語は、[[十二光]]の中の難思光・無礙光からとられた言葉であり阿弥陀如来の徳を讃嘆する意とされている。<br>
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『教行証文類』の最初の注釈書である存覚上人の『[[六要鈔]]』では、難思と無礙の語は、[[十二光]]の中の難思光・無礙光からとられた言葉であり阿弥陀如来の徳を讃嘆する意とされている。<br>
『弥陀如来名号徳』には、「難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり 」[[弥陀如来名号徳#no13|(*)]]と、あり、「無碍光といふは……ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無碍光仏と申すなり」[[弥陀如来名号徳#no3|(*)]]とある。<br />
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『[[弥陀如来名号徳]]』には、「難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり 」[[弥陀如来名号徳#no13|(*)]]と、あり、「無碍光といふは……ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無碍光仏と申すなり」[[弥陀如来名号徳#no3|(*)]]とある。<br />
 
 難思とは心も言葉も及ぶことのできない仏陀のさとりの境界である[[無分別智]]の領域だというのである。そして、その無分別のさとりの境界へ衆生を導くのは、「有情の煩悩悪業のこころにさへら」れない「無礙光明」だとするのである。<br>
 
 難思とは心も言葉も及ぶことのできない仏陀のさとりの境界である[[無分別智]]の領域だというのである。そして、その無分別のさとりの境界へ衆生を導くのは、「有情の煩悩悪業のこころにさへら」れない「無礙光明」だとするのである。<br>
御開山は「帰命尽十方無碍光如来」という十字の名号を尊重された。『尊号真像銘文』に於いても「無碍といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり 」と、無礙という言葉に関心を持っておられた。因位の阿弥陀仏の絶対平等の救済を[[信知]]するがゆえに、自らの内奥の煩悩の闇の深さを知らしめられ、その煩悩悪業の心にさえぎられることなく「帰命尽十方無碍光如来(なんまんだぶ)」と顕現している名号は、生死の難度海を渡る大船であった。これが、[[仏願の生起本末]]であり、法然聖人が示された、本願に選択された念仏であった。
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御開山は「[[帰命尽十方無碍光如来]]」という十字の名号を尊重された。『尊号真像銘文』に於いても「無碍といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり 」と、無礙という言葉に関心を持っておられた。因位の阿弥陀仏の絶対平等の救済を[[信知]]するがゆえに、自らの内奥の煩悩の闇の深さを知らしめられ、その煩悩悪業の心にさえぎられることなく「帰命尽十方無碍光如来(なんまんだぶ)」と顕現している名号は、生死の難度海を渡る大船であった。これが、[[仏願の生起本末]]であり、法然聖人が示された、本願に[[選択]]された[[念仏]]であった。
  
なお、「難思弘誓」の弘誓とは、第十八願文は「設我得仏 十方衆生」から読めば衆生への《願い》であり、「若不生者 不取正覚」からみれば生仏一如の《誓い》である。この若不生者不取正覚という生仏不二の誓いを弘誓というのであった。
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なお、「難思弘誓」の弘誓とは、第十八願文は「設我得仏 十方衆生」から読めば衆生への《願い》であり、「[[若不生者不取正覚|若不生者 不取正覚]]」からみれば生仏一如の《誓い》である。この[[若不生者不取正覚]]という生仏不二の誓いを[[弘誓]]というのであった。
  
 
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2019年12月10日 (火) 03:16時点における最新版

なんじのぐぜい

 思いはかることのできない広大な誓願。(総序 P.131)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

難思と無礙の文は対偶(〈四六(しろく)駢儷体(べんれいたい)〉の四字と六字によって、対句表現を行う文体)を用いた対句になっており、対句によって〈難思弘誓〉と〈無礙光明〉の両句は一体の意味をあらわそうとされたのであろう。

難思弘誓 度難度海大船
難思の弘誓は難度海を度する大船、
無礙光明 破無明闇恵日。
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。

『教行証文類』の最初の注釈書である存覚上人の『六要鈔』では、難思と無礙の語は、十二光の中の難思光・無礙光からとられた言葉であり阿弥陀如来の徳を讃嘆する意とされている。
弥陀如来名号徳』には、「難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり 」(*)と、あり、「無碍光といふは……ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無碍光仏と申すなり」(*)とある。
 難思とは心も言葉も及ぶことのできない仏陀のさとりの境界である無分別智の領域だというのである。そして、その無分別のさとりの境界へ衆生を導くのは、「有情の煩悩悪業のこころにさへら」れない「無礙光明」だとするのである。
御開山は「帰命尽十方無碍光如来」という十字の名号を尊重された。『尊号真像銘文』に於いても「無碍といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり 」と、無礙という言葉に関心を持っておられた。因位の阿弥陀仏の絶対平等の救済を信知するがゆえに、自らの内奥の煩悩の闇の深さを知らしめられ、その煩悩悪業の心にさえぎられることなく「帰命尽十方無碍光如来(なんまんだぶ)」と顕現している名号は、生死の難度海を渡る大船であった。これが、仏願の生起本末であり、法然聖人が示された、本願に選択された念仏であった。

なお、「難思弘誓」の弘誓とは、第十八願文は「設我得仏 十方衆生」から読めば衆生への《願い》であり、「若不生者 不取正覚」からみれば生仏一如の《誓い》である。この若不生者不取正覚という生仏不二の誓いを弘誓というのであった。