くおん-じつじょう
久遠劫の過去世において実に正覚を成就し仏になっていること。一般に釈尊について、そのさとりの内容、つまり法が常住不変であることにもとづいていわれるが、これに準じて阿弥陀仏も久遠実成の古仏、久遠実成阿弥陀仏といわれる。すなわち経典には十劫の昔に成仏されたとあるが、実は久遠の昔からすでに成仏せられていた古仏であるということ。 (持名鈔 P.1001,真要鈔 P.969)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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御開山の仏身観は『論註』の法性・方便の二種法身として阿弥陀仏を領解されておられる。法性法身とは、さとりそのものである法性真如を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超えた認識を超えたものであり、方便法身とは、「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり」(一多 P.690)の阿弥陀如来だとされておられる。「讃阿弥陀仏偈和讃」で、
- 弥陀成仏のこのかたは
- いまに十劫とときたれど
- 塵点久遠劫よりも
- ひさしき仏とみえたまふ (浄土 P.557)
と、塵点久遠という天台『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という大乗仏教の理を示しておられる。
→如来
→親鸞聖人の仏身論