実相の身
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じっそうのしん
真如実相をさとった仏の自利円満の徳をいう。(信巻 P.215)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:実相身
真如実相にかなった自利円満の仏身。これに対して、衆生(物)のために利益をほどこす利他円満の仏身を為物身という。曇鸞は、この実相身・為物身によって阿弥陀仏の性格を明らかにしている。それは阿弥陀仏の仏身の全体を指して実相身とし、同時にまた為物身とするもので、阿弥陀仏の正覚は単に仏みずからのためのものではなく、衆生救済のために成就されたものであることを示している。→不如実修行、七祖-補註1。(浄土真宗辞典)
『論註』には、なんまんだぶを称えても「無明なほありて所願を満てざる」ことを、如来が実相身であり、為物身であることを知らないからであるとする。御開山の意によれば、ここでの無明は本願を疑い仏智を明らかに信じない疑無明をいう。→無明
- 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。
{中略}