信知
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
しん-ち
信じ知ること。阿弥陀仏の信(まこと)を知ること。
阿弥陀仏の教法(本願)を聞いて、我を救い仏陀と成らしめる阿弥陀仏の本願力の信(真実)を信じ、自己の罪障と仏に成るための自力無功[1]を知ること。
『一念多念証文』では善導大師の『往生礼讃』、深信釈(*)の「信知」を引かれて、
- 「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」(礼讃 六五四)といふは、如来のちかひを信知すと申すこころなり。
- 「信」といふは金剛心なり、「知」といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。また「知」といふは観なり、こころにうかべおもふを観といふ、こころにうかべしるを「知」といふなり。 (一多 P.686)
とある。
『往生礼讃』では、『観経』で説かれる深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。
御開山は、この真実の信心を「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「〈信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。
なお「観」を「こころにうかべおもふを〈観〉といふ、こころにうかべしるを〈知〉といふなり」とされておられ、摩訶止観の観(正しい智慧をおこして対象を観(み)ること)の「観」の字義とされていたことは留意すべきである。
ともあれ、信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種深信をあらわされているとされたのである。信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)
蛇足
近年、浄土真宗の信心を、自覚という言葉で表現する僧俗が多い。元来、自覚という言葉は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」(玄義分 P.301)とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている自覚とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、他力の信心の表現として濫用すべきではない。善導大師が「信知」という言葉を示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。
以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。
(32)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ (曇鸞讃)
(73)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ (善導讃)
- ↑ 自力無功とは、自らの仏道修業による
功力 (修行によって得た力)では、往生成仏の仏果を得ることが出来ないことをいう。親鸞聖人は、『御消息』(6)の、笠間の念仏者の疑ひとはれたる事の中で、
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。
と云われている。ここで「余の仏号を称念し、余の善根を修行して」とは阿弥陀如来の選択された本願によらない行業を修することを自力であるとされている。次下に、
また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。
とされ、本願を信じ念仏を申して仏になる行業を他力であるとされている。ようするに自力と他力の対判は、仏道修行の上で論じる概念であった。
なお、無功と似た語に無効という言葉があるが、無効とは、はじめから効力が無く仏道に対して何の功力(くりき)も無いことをいう。いわゆる浄土真宗のご法義の枠中におりながら、一声の称名もしない無力(むりき)の輩を指す言葉である。