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真実

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

しんじつ

Ⅰ.教法(きょうぼう)についていう場合。邪偽(じゃぎ)(外教)・権仮(ごんけ)聖道第十九二十願の法門)に対して第十八願の法門を真実という。
Ⅱ.虚妄(こもう)である自己と社会の現実に対して如来の願心を真実という。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

真実

まことの意。

Ⅰ 真如法性そのものをいう。また、真如法性にかなった如来願心やはたらきをいう。『一多文意』には、
「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。 (一多 P.678)
とある。 →真実功徳相
Ⅱ 邪偽(じゃぎ)(外教)・権仮(ごんけ)聖道第十九二十願の法門)に対して第十八願の法門を真実という。『浄土和讃』には、
如来興世の本意には
 本願真実ひらきてぞ
 難値難見とときたまひ
 猶霊瑞華としめしける (浄土 P.566)

とある。(浄土真宗辞典)

御開山は、自らに真実が無いということを真実とされた。

真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。(尊号 P.643)

それは真実の意味を『論註』の真実功徳釈に拠(よ)られたからであった。

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。

一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報[1]、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟 浄に入らしむるがゆゑなり。 (論註 P.55)
真実功徳相
二諦

  1. 仏ではなく、人や天人に生まれる果報であること。これは生死を超える真実の功徳ではない。