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現生正定聚

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年9月3日 (月) 14:07時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

げんしょう-しょうじょうじゅ

 正定聚とは、必ずさとりを開いて仏になることが(まさ)しくまっているともがら()のこと。一般には菩薩五十二位の修道階位の「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」のうちの十地の初地である歓喜地を正定聚という。

『菩薩瓔珞本業経』の菩薩の階位

御開山は、上述のように一般には菩薩の修道の階位を表していた、正定聚邪定聚不定聚の三定聚説を、真仮分判の名目として転用しておられた。→「六三法門

浄土教では『無量寿経』の第十一願に、

設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚。
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。(大経 P.17)

と「国中の人・天」とあり、正定聚は浄土に往生して得られる利益とされていた。
御開山は、

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(行巻 P.186)

とされ、真実の行信を獲れば歓喜が多いから、これを歓喜地と名づくとされた。また『御消息』では「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す」(御消息 P.735) と、摂取不捨の故に現生で正定聚に住すとされた。→即時入必定 →入正定聚之数

御開山は『十住毘婆沙論』「入初地品」、

凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに名づけて入とす。この心をもつて初地に入るを歓喜地と名づくと。 (行巻 P.147)

と、初地に入る歓喜地に言及されている。そして「地相品」を引き、

「問うていはく、初歓喜地の菩薩、この地のなかにありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳を得ることをなすがゆゑに歓喜を地とす。法を歓喜すべし。なにをもつて歓喜するやと。
 答へていはく、〈つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆゑに歓喜多し〉と。かくのごときらの歓喜の因縁のゆゑに、菩薩、初地のなかにありて心に歓喜多し。(行巻 P.147)

と「必定して希有の行」(大行)をあらわされておられる。このように歓喜という語に着目されておられるのは「本願成就文」の、

諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生、住不退転。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(大経 P.41)

の、阿弥陀仏の「至心に回向したまへる」信心を歓喜し「諸仏の大法を念ず」ることは「歓喜地」と同じであるとみられたからであろう。
また「信巻」で『華厳経』入法界品の結論である、

聞此法歓喜 信心無疑者
速成無上道。与諸如来等。

の偈文を引かれる。この偈文は通常は「この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑いなければ、すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん」と読むのだが、御開山は、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」(信巻 P.237)と訓じられ、回向される如来の信心を歓喜する意に転じておられた。
なお、御開山は『一念多念文意』で「第十一願成就文」、

其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚。
それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。

の、浄土で正定聚に住するという文を、

それ衆生あつて、かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり。

と、「生れんとするものは」と訓じられて現生に正定聚に住す意とされた。→剋念して…入る

歓喜地
正定聚
不退転
必定
阿惟越致
阿毘跋致
摂取不捨
第一希有の行