煩悩即菩提
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ぼんのう-そくぼだい
『論註』には、
- 「道」とは無礙道なり。『経』(華厳経・意)にのたまはく、「十方の無礙人、一道より生死を出づ」と。「一道」とは一無礙道なり。「無礙」とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は、無礙の相なり。(論註 P.155)
と「無礙者 謂知生死即是涅槃(無礙とは生死すなはちこれ涅槃と知るなり)」 と、十方世界の諸仏を十方の無礙人とされておられた。
法然聖人は『和語灯録』「往生大要抄」で、真言・達磨(禅宗)・天台・花厳等を挙げて論じ、
- 天台宗には、煩悩即菩提 生死即涅槃と観じて、観心にてほとけになるとならふ也。(和語灯録#P--417)
と、「煩悩即菩提 生死即涅槃」は天台宗の観心(摩訶止観)の教えだとされていた。
梯實圓和上は『法然教学の研究』「法然教学と本覚法門」中で、
- 生仏不二、煩悩即菩提を衆生に即して語るときは、凡夫の現実を無視した空論におちいるが、如来の悟りの構造をあらわす論理としては真理である。法然は煩悩の凡夫と一体となって救済したまう阿弥陀仏の同体平等の大悲の構造をあらわす論理としてこれを活用していかれたのである。
といわれておられた。
上記の「曇鸞讃」に、
- 無碍光の利益より
- 威徳広大の信をえて
- かならず煩悩のこほりとけ
- すなはち菩提のみづとなる (高僧 P.585)
- 罪障功徳の体となる
- こほりとみづのごとくにて
- こほりおほきにみづおほし
- さはりおほきに徳おほし (高僧 P.585)
とあり、仏のさとりの智見からみれば、煩悩と菩提は、その体性は一つであるということ。 これを煩悩具足の衆生の側から論ずると、一元論の本覚思想に陥る。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:煩悩即菩提
ぼんのうそくぼだい/煩悩即菩提
煩悩がそのままさとりの縁となること。原始仏教や部派仏教では、煩悩と菩提は対立的に捉えられたが、大乗仏教において煩悩も菩提(さとり)も空であり、本来は不二で相即していると説かれるようになった。さとりの面から捉えれば煩悩も真如の現れであり、それを離れてさとりはないということになる。大乗仏教の一思想表現として「生死即涅槃」と併称される。『大乗荘厳経論』六に「法性を離れて外に諸法あることなきにより、是の故に是の如く説く、煩悩即菩提なりと」(正蔵三一・六二二中)とある。
【執筆者:大屋正順】