十劫安心
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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じっこう-あんじん
安心とは、心を一つ処に安置して不動なこと。十劫とは、『大経』に、
- 仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を
歴 たまへり。」(大経 P.28)
とあり、阿弥陀仏が十劫のむかし正覚を成就し、衆生の往生を定められたとことをいう。十劫安心とは、この十劫の昔に正覚を成就されたのであるから、これを知ることを信心であるといふ。『安心決定鈔』に、
- 念仏といふは、かならずしも口に南無阿弥陀仏ととなふるのみにあらず、阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信心のおこるを念仏といふなり。 (安心決定 P.1392)
とある「十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるもの」の意を誤解して信心と混同することを、「十劫安心」といい正当な浄土真宗のご信心ではないとする。蓮如さんは、
- 一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ。
と、『安心決定鈔』を「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまでいわれ「機法一体」の法語も『安心決定鈔』に依られたのだが、決して阿弥陀仏の正覚と往生を同値する「往生正覚」の語による信心とはいわれなかった。かえって、
- 「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚を成りたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。(御文章 P.1102)
といわれて、仏願の生起が本末として動的に私にはたらいている本願力回向のご信心を強調されたのである。御開山の示された信とは、過去の獲信の記憶を回想するのではなく、未来を妄想することでもなく、現在ただいま届いている「仏願の生起本末」仏勅を聞信することであったからである。浄土真宗の先達は「聞即信」ということを示して下さったのも、観念的な心に思い描く信心ではなく、なんまんだぶと称えなんまんだぶと聞える名号法による済度をいうのであった。第十八願の「若不生者 不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」である。