清浄願往生の心
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しょうじょう-がんおうじょうのしん
如来回向の信心のこと。 (信巻P.225)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 清浄願往生心(往生を願う清浄な心)
善導大師は「
と読まれて行者の起こす「清浄願往生の心」の譬えとされていた。
御開山は、この譬喩を凡夫には清浄なる心はあり得ない「機の深信」の立場から、
と、「生ぜしむる」と使役で読まれて「清浄願往生の心」とは本願力によって生じる「如来回向の信心」の意であるとされた。
御開山は『愚禿鈔』で、願往生心を、
- 「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。(愚禿下P.537)
とされておられた。それは「欲生釈」で、
と、「諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」とされていた。世俗の論理に埋没して願うべき安養の浄土を願わない輩(林遊)に浄土からの本願招喚の勅命を示す言葉が「能生清浄願往生心」であった。
なお、法然聖人は『三心料簡および御法語』で白道を「雑行雑修」と「専修正行」の白道に分けられて、雑行の白道は「白道なれども貪瞋水火のために損ぜらる」とされ、正行の白道は「正行の者は、願力の道に乗ずるゆえに、全く貪・瞋・水・火の損害を受けず」とされておられた。願力の道に乗ずるがゆえに、たとえ貪瞋煩悩はあっても往生にとっては障りにはならないとされた。 →『三心料簡および御法語』