称名
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
しょうみょう
仏・菩薩の
善導大師は、阿弥陀仏の本願(第十八願)に「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」とあるのを、「我が名号を称すること
法然上人はそれをうけて、阿弥陀仏がその本願において、難劣な余行を選捨(えらびすて)し、最勝にして至易である称名を選取(えらびとる)して、往生の正定業と選定したといい、他の一切の行を廃して、称名一行の専修を勧めた。
これは本願を信じて称える他力の称名である。この他力の称名は称えた功をみず、名号願力に帰する行であるから、その体徳からいえば正定の業因である。しかし信後の称名は、正因決定後のおこないであるから、行者は仏恩報謝のおもいに住して行ずべきであるというのが、浄土真宗の信心正因・称名報恩説である。→補註10。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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称には、となえるの他に、たたえる・かなう・はかる・ほめる・あげる等の意味がある。この意から浄土真宗では唱の字を使わずに専ら称の字を使う。それはまた「出於大悲願(大悲の願よりいでた)第十七願に、
- 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者
- 十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、
とある諸仏の讃嘆としての咨嗟称我名の讃嘆の名号であるからである。
- →咨嗟