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安心決定鈔

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年7月28日 (土) 13:54時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

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 著者は不明であるが、第8代宗主蓮如上人の指南によって本願寺派では聖教とみなしている。その内容は本末2巻に分かれ、三文の引用と四事の説明によって成り立っているところから、古来三文四事の聖教といわれている。三文とは、『往生礼讃』の第十八願加減の文、『往生論』(『浄土論』)の「如来浄華衆正覚華化生」の文、『法事讃』の「極楽無為涅槃界…」の文であり、四事とは、(1)自力他力日輪の事、(2)四種往生の事、(3)『観仏三昧経』の閻浮檀金の事、(4)薪火不離の喩えである。

 本書の中心思想は、機法一体論である。まず本巻では、第十八願加減の文によって衆生の往生(機)と仏の正覚(法)の一体を示し、続いて機法一体の名号について論じて、念仏衆生の三業と仏の三業とが一体であることを示す。末巻では、『往生論』の文を引き、如来の機法一体の正覚について論じ、『法事讃』の文を引いて、正覚は無為無漏であり、名号は機法一体の正覚と不二であるところから、念仏三昧もまた無為無漏であると説いている。最後に(1)自力と他力を闇夜と日輪に喩え、(2)正念・狂乱・無記・意念の四種の往生が、阿弥陀仏の摂取によって可能であることを明かし、(3)念仏三昧の利益を閻浮檀金に喩え、(4)行者の心と阿弥陀仏の摂取不捨の光明との不離を薪と火との不離に喩えて、これによって南無阿弥陀仏の義意をあらわされている。


安心決定鈔 本

三 文

【1】 浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

『往生礼讃』第十八願加減の文

【2】 この願を『礼讃』(七一一)に釈したまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といへり。この文のこころは、「十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏に成らん、衆生往生せずは、われ正覚を取らじ」となり。かるがゆゑに、仏の正覚はわれらが往生するとせざるとによるべきなり。しかるに十方衆生いまだ往生せざるさきに、正覚を成ずることは、こころえがたきことなり。しかれども、仏は衆生にかはりて願と行とを円満して、われらが往生をすでにしたためたまふなり。十方衆生の願行円満して、往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひしなり。

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。

たとへば日出づれば刹那に十方の闇ことごとく晴れ、月出づれば法界の水同時に影をうつすがごとし。月は出でて影を水にやどす、日は出でて闇の晴れぬことあるべからず。かるがゆゑに、日は出でたるか出でざるかをおもふべし、闇は晴れざるか晴れたるかを疑ふべからず。仏は正覚成りたまへるかいまだ成りたまはざるかを分別すべし、凡夫の往生を得べきか得べからざるかを疑ふべからず。「衆生往生せずは仏に成らじ」(大経・上意)と誓ひたまひし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまへり。

仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。かるがゆゑに『般舟讃』(七一五)には、「おほきにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釈し、自にはぢ他にはづとも釈せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、弥陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。

機より成ずる大小乗の行ならば、法は妙なれども、機がおよばねばちからなしといふこともありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆづりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずといふことなき功徳なり。このことわりを慇懃に告げたまふことを信ぜず、しらざることをおほきにはづべしといふなり。「三千大千世界に、芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまはぬところはなし」(法華経・意)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かはりて難行苦行して縁をむすび、をかさねたまひしなり。この広大の御こころざしをしらざることを、おほきにはぢはづべしといふなり。

このこころをあらはさんとて、「種々の方便をもつて、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃)(七一五)と釈せり。無上の信心といふは、他力の三信なり。つぎに「種々の方便を説く教文ひとつにあらず」(般舟讃)といふは、諸経随機の得益なり。凡夫は左右なく他力の信心を獲得することかたし。しかるに自力の成じがたきことをきくとき、他力の易行も信ぜられ、聖道の難行をきくに浄土の修しやすきことも信ぜらるるなり。おほよそ仏の方よりなにのわづらひもなく成就したまへる往生を、われら煩悩にくるはされて、ひさしく流転して不思議の仏智を信受せず。かるがゆゑに三世の衆生の帰命の念も正覚の一念にかへり、十方の有情の称念の心も正覚の一念にかへる。さらに機において一称一念もとどまることなし。

名体不二の弘願の行

【3】 名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。

かるがゆゑに「玄義」(玄義分)(三二五)にいはく、「いまこの『観経』のなかの十声の称仏には、すなはち十願ありて十行具足せり。いかんが具足せる。南無といふはすなはちこれ帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑに、かならず往生を得」といへり。

下品下生失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。

唯明専念弥陀名号得生の文

【4】 「如無量寿経四十八願中 唯明専念弥陀名号得生」(定善義)(四三七)とも釈し、「又此経定散文中 唯標専念弥陀名号得生」(同)とも釈して、三経ともにただこの本願をあらはすなり。第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり。名号をこころうるといふは、阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。

かるがゆゑに念仏の行者、名号をきかば、「あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆゑに」とおもふべし。また弥陀仏の形像ををがみたてまつらば、「あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵薩埵の成正覚の御すがたなるゆゑに」とおもふべし。また極楽といふ名をきかば、「あは、わが往生すべきところを成就したまひにけり、衆生往生せずは正覚取らじと誓ひたまひし法蔵比丘の成就したまへる極楽よ」とおもふべし。

機をいへば、仏法と世俗との二種の善根なき唯知作悪の機に、仏体より恒沙塵数の功徳を成就するゆゑに、われらがごとくなる愚痴・悪見の衆生のための楽のきはまりなるゆゑに極楽といふなり。本願を信じ名号をとなふとも、よそなる仏の功徳とおもうて名号に功をいれなば、などか往生をとげざらんなんどおもはんは、かなしかるべきことなり。ひしとわれらが往生成就せしすがたを南無阿弥陀仏とはいひけるといふ信心おこりぬれば、仏体すなはちわれらが往生の行なるがゆゑに、一声のところに往生を決定するなり。阿弥陀仏といふ名号をきかば、やがてわが往生とこころえ、わが往生はすなはち仏の正覚なりとこころうべし。弥陀仏は正覚成じたまへるかいまだ成じたまはざるかをば疑ふとも、わが往生の成ずるか成ぜざるかをば疑ふべからず。一衆生のうへにも往生せぬことあらば、ゆめゆめ仏は正覚成りたまふべからず。ここをこころうるを第十八の願をおもひわくとはいふなり。

別異の弘願

【5】 まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)(三〇〇)とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生さきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

かかる不思議の名号、もしきこえざるところあらば正覚取らじと誓ひたまへり。われらすでに阿弥陀といふ名号をきく。しるべし、われらが往生すでに成ぜりといふことを。きくといふは、ただおほやうに名号をきくにあらず、本願他力の不思議をききて疑はざるをきくとはいふなり。御名をきくも本願より成じてきく、一向に他力なり。たとひ凡夫の往生成じたまひたりとも、その願成就したまへる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき。かるがゆゑに名号をききても形像を拝しても、わが往生を成じたまへる御名ときき、「われらをわたさずは仏に成らじと誓ひたまひし法蔵の誓願むなしからずして、正覚成じたまへる御すがたよ」とおもはざらんは、きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし。

『平等覚経』(四意)にのたまはく、「浄土の法門を説くを聞きて歓喜踊躍し、身の毛いよたつ」といふは、そぞろによろこぶにあらず。わが出離の行をはげまんとすれば、道心もなく智慧もなし。智目・行足かけたる身なれば、ただ三悪の火坑にしづむべき身なるを、願も行も仏体より成じて、機法一体の正覚成じたまひけることのうれしさよとおもふとき、歓喜のあまりをどりあがるほどにうれしきなり。『大経』に「爾時聞一念」とも、「聞名歓喜讃」ともいふは、このこころなり。よそにさしのけてはなくして、やがてわが往生すでに成じたる名号、わが往生したる御すがたとみるを、名号をきくとも形像をみるともいふなり。このことわりをこころうるを本願を信知すとはいふなり。

念仏三昧信心決定

【6】 念仏三昧において信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもふべきなり。ひとの身をば地水火風の四大よりあひて成ず、小乗には極微の所成といへり。身を極微にくだきてみるとも報仏の功徳の染まぬところはあるべからず。されば機法一体の身も南無阿弥陀仏なり。こころは煩悩・随煩悩等具足せり、刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一体にしてこころも南無阿弥陀仏なり。弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆゑに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。

われらが迷倒のこころのそこには法界身の仏の功徳みちみちたまへるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行円満せる御かたちなるゆゑに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心二法・三業・四威儀、すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば出づる息入る息も、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。縛曰羅冒地といひしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつの池となりき。その法に染みぬれば色心正法それになりかへることなり。


【7】 念仏三昧の領解ひらけなば、身もこころも南無阿弥陀仏〔に〕なりかへりて、その領解ことばにあらはるるとき、南無阿弥陀仏と申すがうるはしき弘願の念仏にてあるなり。念仏といふは、かならずしも口に南無阿弥陀仏ととなふるのみにあらず、阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信心のおこるを念仏といふなり。

さてこの領解をことわりあらはせば、南無阿弥陀仏といふにてあるなり。この仏の心は大慈悲を本とするゆゑに、愚鈍の衆生をわたしたまふをさきとするゆゑに、名体不二の正覚をとなへましますゆゑに、仏体も名におもむき、名に体の功徳を具足するゆゑに、なにとはかばかしくしらねども、平信のひともとなふれば往生するなり。されども下根の凡夫なるゆゑに、そぞろにひら信じもかなふべからず、そのことわりをききひらくとき信心はおこるなり。

念仏を申すとも往生せぬをば、「名義に相応せざるゆゑ」(論註・下 一〇三)とこそ、曇鸞も釈したまへ。「名義に相応す」といふは、阿弥陀仏の功徳力にてわれらは往生すべしとおもうてとなふるなり。領解の信心をことばにあらはすゆゑに、南無阿弥陀仏の六字をよくこころうるを三心といふなり。かるがゆゑに仏の功徳、ひしとわが身に成じたりとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなふるが、三心具足の念仏にてあるなり。

自力のひとの念仏は、仏をばさしのけて西方におき、わが身をばしらじらとある凡夫にて、ときどきこころに仏の他力をおもひ名号をとなふるゆゑに、仏と衆生とうとうとしくして、いささか道心おこりたるときは、往生もちかくおぼえ、念仏もものうく道心もさめたるときは、往生もきはめて不定なり。凡夫のこころとしては、道心をおこすこともまれなれば、つねには往生不定の身なり。もしやもしやとまてども往生は臨終までおもひさだむることなきゆゑに、口にときどき名号をとなふれども、たのみがたき往生なり。たとへばときどきひとに見参みやづかひみやづかひするに似たり。そのゆゑは、いかにして仏の御こころにかなはんずるとおもひ、仏に追従して往生の御恩をもかぶらんずるやうにおもふほどに、機の安心と仏の大悲とがはなればなれにて、つねに仏にうとき身なり。この位にてはまことにきはめて往生不定なり。念仏三昧といふは、報仏弥陀の大悲の願行は、もとより迷ひの衆生の心想のうちに入りたまへり、しらずして仏体より機法一体の南無阿弥陀仏の正覚に成じたまふことなりと信知するなり。願行みな仏体より成することなるがゆゑに、をがむ手、となふる口、信ずるこころ、みな他力なりといふなり。


【8】 かるがゆゑに機法一体の念仏三昧をあらはして、第八の観には、「諸仏如来是法界身 入一切衆生心想中」(観経)と説く。これを釈するに、「法界といふは所化の境、すなはち衆生界なり」(定善義 四三一)といへり。定善の衆生ともいはず、道心の衆生とも説かず、法界の衆生を所化とす。「法界といふは、所化の境、衆生界なり」と釈する、これなり。まさしくは、こころいたるがゆゑに身もいたるといへり。

弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに入り満つゆゑに、「入一切衆生心想中」と説くなり。ここを信ずるを念仏衆生といふなり。また真身観には、「念仏衆生の三業と、弥陀如来の三業と、あひはなれず」(定善義・意 四三七)と釈せり。仏の正覚は衆生の往生より成じ、衆生の往生は仏の正覚より成ずるゆゑに、衆生の三業と仏の三業とまつたく一体なり。仏の正覚のほかに衆生の往生もなく、願も行もみな仏体より成じたまへりとしりきくを念仏の衆生といひ、この信心のことばにあらはるるを南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに念仏の行者になりぬれば、いかに仏をはなれんとおもふとも、微塵のへだてもなきことなり。仏の方より機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひたりけるゆゑに、なにとはかばかしからぬ下下品の失念の位の称名も往生するは、となふるときはじめて往生するにはあらず、極悪の機のためにもとより成じたまへる往生をとなへあらはすなり。また『大経』の三宝滅尽の衆生の、三宝の名字をだにもはかばかしくきかぬほどの機が、一念となへて往生するも、となふるときはじめて往生の成ずるにあらず。仏体より成ぜし願行の薫修が、一声称仏のところにあらはれて往生の一大事を成ずるなり。


【9】 かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。念仏といふはこのことわりを念じ、行といふはこのうれしさを礼拝恭敬するゆゑに、仏の正覚と衆生の行とが一体にしてはなれぬなり。したしといふもなほおろかなり、ちかしといふもなほとほし。一体のうちにおいて能念・所念を体のうちに論ずるなりとしるべし。

安心決定鈔 本

安心決定鈔 末

 

『浄土論』同一念仏無別道故の文

【10】 『往生論』(浄土論 三〇)に「如来浄華衆正覚華化生」といへり。他力の大信心をえたるひとを浄華の衆とはいふなり。これはおなじく正覚の華より生ずるなり。正覚華といふは、衆生の往生をかけものにして、「もし生ぜずは、正覚取らじ」と誓ひたまひし法蔵菩薩の十方衆生の願行成就せしとき、機法一体の正覚成じたまへる慈悲の御こころのあらはれたまへる心蓮華を、正覚華とはいふなり。これを第七の観には「除苦悩法」(観経)と説き、下下品には「五逆の衆生を来迎する蓮華」(同・意)と説くなり。仏心を蓮華とたとふることは、凡夫の煩悩の泥濁に染まざるさとりなるゆゑなり。なにとして仏心の蓮華よりは生ずるぞといふに、曇鸞この文を、「同一に念仏して別の道なきがゆゑに」(論註・下 一二〇)と釈したまへり。「とほく通ずるに、四海みな兄弟なり」(同・下)。善悪〔の〕機ことに、九品〔の〕位かはれども、ともに他力の願行をたのみ、おなじく正覚の体に帰することはかはらざるゆゑに、「同一念仏して別の道なきがゆゑに」といへり。またさきに往生するひとも他力の願行に帰して往生し、のちに往生するひとも正覚の一念に帰して往生す。心蓮華のうちにいたるゆゑに、「四海みな兄弟なり」といふなり。


【11】 「仏身を観るものは仏心を見たてまつる。仏心といふは大慈悲これなり」(観経)。仏心はわれらを愍念したまふこと、骨髄にとほりて染みつきたまへり。たとへば火の炭におこりつきたるがごとし、はなたんとするともはなるべからず。摂取の心光われらを照らして、身より髄にとほる。心は三毒煩悩の心までも仏の功徳の染みつかぬところはなし。機法もとより一体なるところを南無阿弥陀仏といふなり。この信心おこりぬるうへは、口業には、たとひときどき念仏すとも常念仏の衆生にてあるべきなり。三縁のなかに、「口につねに、身につねに」(定善義 四三六)と釈する、このこころなり。

仏の三業の功徳を信ずるゆゑに、衆生の三業、如来の仏智と一体にして、仏の長時修の功徳、衆生の身口意にあらはるるところなり。また唐朝(中国)に傅大士とて、ゆゆしく大乗をもさとり、外典にも達してたふときひとおはしき。そのことばにいはく、「朝な朝な仏とともに起き、夕な夕な仏をいだきて臥す」(傅大士録・意)といへり。これは聖道の通法門真如の理仏をさして仏といふといへども、修得の方よりおもへばすこしもたがふまじきなり。摂取の心光に照護せられたてまつらば、行者もまたかくのごとし。朝な朝な報仏の功徳を持ちながら起き、夕な夕な弥陀の仏智とともに臥す。うとからん仏の功徳は、機にとほければいかがはせん。真如法性の理は近けれども、さとりなき機にはちからおよばず。わがちからもさとりもいらぬ他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転の故郷にかへらんこと、かへすがへすもかなしかるべきことなり。釈尊もいかばかりか往来娑婆八千遍の甲斐なきことをあはれみ、弥陀もいかばかりか難化能化のしるしなきことをかなしみたまふらん。もし一人なりともかかる不思議の願行を信ずることあらば、まことに仏恩を報ずるなるべし。かるがゆゑに『安楽集』(上 二三五)には、「すでに他力の乗ずべきみちあり。つたなく自力にかかはりて、いたづらに火宅にあらんことをおもはざれ」(意)といへり。このことまことなるかな。自力のひがおもひをあらためて、他力を信ずるところを、「ゆめゆめ、迷ひをひるがへして本家に還れ」(礼讃 七〇〇)ともいひ、「帰去来、魔郷には停まるべからず」(定善義 四〇六)とも釈するなり。

『法事讃』極楽無為涅槃界の文

【12】 また『法事讃』(下 五六四)に、「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」といへり。  この文のこころは、「極楽は無為無漏のさかひなれば、有為有漏の雑善にては、おそらくは生れがたし、無為無漏の念仏三昧に帰してぞ、無為常住の報土には生ずべき」といふなり。まづ「随縁の雑善」といふは、自力の行をさすなり。真実に仏法につきて領解もあり、信心もおこることはなくして、わがしたしきものの律僧にてあれば、戒は世にたふときことなりといひ、あるいは、今生のいのりのためにも真言をせさすれば結縁もむなしからず真言たふとしなどいふ体に、便宜にひかれて縁にしたがひて修する善なるがゆゑに、随縁の雑善ときらはるるなり。この位ならば、たとひ念仏の行なりとも、自力の念仏は随縁の雑善にひとしかるべきか。

【13】 うちまかせてひとのおもへる念仏は、こころには浄土の依正をも観念し、口には名号をもとなふるときばかり念仏はあり、念ぜずとなへざるときは念仏もなしとおもへり。この位の念仏ならば、無為常住の念仏とはいひがたし。となふるときは出で来、となへざるときは失せば、またことに無常転変の念仏なり。無為とはなすことなしとかけり。小乗には三無為といへり。そのなかに虚空無為といふは、虚空は失することもなく、はじめて出で来ることもなし、天然なることわりなり。大乗には真如法性等の常住不変の理を無為と談ずるなり。序題門(玄義分)に、「法身常住比若虚空」と釈せらるるも、かのくにの常住の益をあらはすなり。かるがゆゑに極楽を無為住のくにといふは、凡夫のなすによりて、失せもし、出で来もすることのなきなり。念仏三昧もまたかくのごとし。衆生の念ずればとて、はじめて出で来、わするればとて失する法にあらず。よくよくこのことわりをこころうべきなり。


【14】 おほよそ念仏といふは仏を念ずとなり。仏を念ずといふは、仏の大願業力をもつて衆生の生死のきづなをきりて、不退の報土に生ずべきいはれを成就したまへる功徳を念仏して、帰命の本願に乗じぬれば、衆生の三業、仏体にもたれて仏果の正覚にのぼる。かるがゆゑにいまいふところの念仏三昧といふは、われらが称礼念すれども自の行にはあらず、ただこれ阿弥陀仏の行を行ずるなりとこころうべし。


【15】 本願といふは五劫思惟の本願、業力といふは兆載永劫の行業、乃至十劫正覚ののちの仏果の万徳なり。この願行の功徳は、ひとへに未来悪世の無智のわれらがために、かはりてはげみ行ひたまひて、十方衆生のうへごとに、生死のきづなきれはてて、不退の報土に願行円満せしとき、機法一体の正覚を成じたまひき。この正覚の体を念ずるを念仏三昧といふゆゑに、さらに機の三業にはとどむべからず。


【16】 うちまかせては機よりしてこそ生死のきづなをきるべき行をもはげみ、報土に入るべき願行をも営むべきに、修因感果の道理にこえたる別異の弘願なるゆゑに、仏の大願業力をもつて凡夫の往生はしたため成じたまひけることのかたじけなさよと帰命すれば、衆生の三業は能業となりてうへにのせられ、弥陀の願力は所業となりてわれらが報仏報土へ生ずべき乗物となりたまふなり。かるがゆゑに帰命の心、本願に乗じぬれば、三業みな仏体にもたるといふなり。仏の願行はさらに他のことにあらず。一向にわれらが往生の願行の体なるがゆゑに、仏果の正覚のほかに往生の行を論ぜざるなり。このいはれをききながら、仏の正覚をば、おほやけものなるやうにてさておいて、いかがして道心をもおこし行をもいさぎよくして往生せんずるとおもはんは、かなしかるべき執心なり。仏の正覚すなはち衆生の往生を成ぜる体なれば、仏体すなはち往生の願なり、行なり。この行は、衆生の念・不念によるべき行にあらず。かるがゆゑに仏果の正覚のほかに往生の行を論ぜずといふなり。この正覚を心に領解するを三心とも信心ともいふ。この機法一体の正覚は名体不二なるゆゑに、これを口にとなふるを南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに心に信ずるも正覚の一念にかへり、口にとなふるも正覚の一念にかへる。たとひ千声となふとも、正覚の一念をば出づべからず。またものぐさくものぐさく懈怠ならんときは、となへず念ぜずして夜をあかし日をくらすとも、他力の信心、本願に乗りゐなば、仏体すなはち長時の行なれば、さらに弛むことなく間断なき行体なるゆゑに、名号すなはち無為常住なりとこころうるなり。「阿弥陀仏すなはちこれその行」(玄義分 (三二五))といへる、このこころなり。


【17】 またいまいふところの念仏三昧は、われらが称礼念すれども自の行にはあらず、ただこれ阿弥陀仏の行を行ずるなりといふは、帰命の心本願に乗りて、三業みな仏体のうへに乗じぬれば、身も仏をはなれたる身にあらず、こころも仏をはなれたるこころにあらず、口に念ずるも機法一体の正覚のかたじけなさを称し、礼するも他力の恩徳の身にあまるうれしさを礼するゆゑに、われらは称すれども念ずれども機の功をつのるにあらず、ただこれ阿弥陀仏の凡夫の行を成ぜしところを行ずるなりといふなり。


【18】 仏体、無為無漏なり。依正、無為無漏なり。されば名体不二のゆゑに、名号もまた無為無漏なり。かるがゆゑに念仏三昧になりかへりて、もつぱらにしてまたもつぱらなれといふなり。専の字、二重なり。まづ雑行をすてて正行をとる、これ一重の専なり。そのうへに助業をさしおきて正定業になりかへる、また一重の専なり。またはじめの専は一行なり、のちの専は一心なり、一行一心なるを「専復専」といふなり。この正定業の体は、機の三業の位の念仏にあらず、時節の久近を問はず、行住坐臥をえらばず、摂取不捨の仏体すなはち凡夫往生の正定業なるゆゑに、名号も名体不二のゆゑに正定業なり。この機法一体の南無阿弥陀仏になりかへるを念仏三昧といふ。かるがゆゑに機の念・不念によらず、仏の無碍智より機法一体に成ずるゆゑに、名号すなはち無為無漏なり。このこころをあらはして、極楽無為といふなり。


【19】 念仏三昧といふは、機の念を本とするにあらず、仏の大悲の衆生を摂取したまへることを念ずるなり。仏の功徳ももとより衆生のところに機法一体に成ぜるゆゑに、帰命の心のおこるといふもはじめて帰するにあらず。機法一体に成ぜし功徳が、衆生の意業に浮び出づるなり。南無阿弥陀仏と称するも、称して仏体に近づくにあらず、機法一体の正覚の功徳、衆生の口業にあらはるるなり。信ずれば仏体にかへり、称すれば仏体にかへるなり。

四 事

自力・他力、日輪の事

【20】 一、自力・他力、日輪の事。

 自力にて往生せんとおもふは、闇夜にわがまなこのちからにてものをみんとおもはんがごとし、さらにかなふべからず。日輪のひかりをまなこにうけとりて所縁の境を照らしみる、これしかしながら日輪のちからなり。ただし、日の照らす因ありとも生盲のものはみるべからず、またまなこひらきたる縁ありとも闇夜にはみるべからず、日とまなこと因縁和合してものをみるがごとし。帰命の念に本願の功徳をうけとりて往生の大事をとぐべきものなり。帰命の心はまなこのごとし、摂取のひかりは日のごとし。南無はすなはち帰命、これまなこなり。阿弥陀仏はすなはち他力弘願の法体、これ日輪なり。よつて本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず。

四種往生の事

【21】 一、四種往生の事。

 四種の往生といふは、一つには正念往生、『阿弥陀経』に、「心不顛倒即得往生」と説く、これなり。

二つには狂乱往生、『観経』の下品に説きていはく、「十悪・破戒・五逆、はじめは臨終狂乱して手に虚空をにぎり、身より白き汗をながし、地獄の猛火現ぜしかども、善知識にあうて、もしは一声、もしは一念、もしは十声にて往生す」(意)。

三つには無記往生、これは『群疑論』にみえたり。このひと、いまだ無記ならざりしとき、摂取の光明に照らされ、帰命の信心おこりたりしかども、生死の身をうけしより、しかるべき業因にて無記になりたれども、往生は他力の仏智にひかれて疑なし。たとへば睡眠したれども、月のひかりは照らすがごとし。無記心のなかにも摂取のひかりたえざれば、ひかりのちからにて無記の心ながら往生するなり。因果の理をしらざるものは、なじに仏の御ちからにて、すこしきほどの無記にもなしたまふぞと難じ、また無記ならんほどにてはよも往生せじなんどおもふは、それはくはしく聖教をしらず、因果の道理にまどひ、仏智の不思議を疑ふゆゑなり。

四つには意念往生、これは『法鼓経』にみえたり。声に出してとなへずとも、こころに念じて往生するなり。

この四種の往生は、黒谷の聖人(法然)の御料簡なり。世の常にはくはしくこのことをしらずして、臨終に念仏申さず、また無記ならんは往生せずといひ、名号をとなへたらば往生とおもふは、さることもあらんずれども、それはなほおほやうなり。五百の長者の子は、臨終に仏名をとなへたりしかども往生せざりしやうに、臨終に声に出すとも帰命の信心おこらざらんものは人・天に生ずべしと、『守護国界経』にみえたり。されば、たださきの四人ながら帰命の心おこりたらば、みな往生しけるにてあるべし。天親菩薩の『往生論』(浄土論 二九)に、「帰命尽十方無碍光如来」といへり。ふかき法もあさきたとへにてこころえらるべし。たとへば日は観音なり、その観音のひかりをば、みどり子よりまなこに得たれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしくなりて、自力にてわが目のひかりにてこそあれとおもひたらんに、よく日輪のこころをしりたらんひと、「おのが目のひかりならば、夜こそものをみるべけれ、すみやかにもとの日光に帰すべし」といはんを信じて、日天のひかりに帰しつるものならば、わがまなこのひかりやがて観音のひかりなるがごとし。

帰命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、わがいのちとおもひたらんをり、善知識、もとの阿弥陀のいのちへ帰せよと教ふるをききて、帰命無量寿覚しつれば、わがいのちすなはち無量寿なりと信ずるなり。かくのごとく帰命するを「正念を得」(礼讃 六五九)とは釈するなり。すでに帰命して正念を得たらんものは、たとひおもくして、この帰命ののち無記になるとも往生すべし。すでに『群疑論』に、「無記の心ながら往生す」といふは、「摂取の光明に照らされぬれば、その無記の心はやみて慶喜心にて往生す」といへり。また『観経』の下三品は、いまだ帰命せざりしときは地獄の相現じて狂乱せしかども、知識に勧められて帰命せしかば往生しき。また平生に帰命しつるひとは、生きながら摂取の益にあづかるゆゑに、臨終にも心顛倒せずして往生す、これを正念往生となづくるなり。また帰命の信心おこりぬるうへは、「たとひ声に出さずしてをはるともなほ往生すべし」と『法鼓経』にみえたり。これを意念往生といふなり。さればとにもかくにも他力不思議の信心決定しぬれば、往生は疑ふべからざるものなり。

『観仏三昧経』の閻浮檀金の事

【22】 一、『観仏三昧経』にのたまはく、「長者あり、一人のむすめあり、最後の処分に閻浮檀金をあたふ、穢物につつみて泥中にうづみておく。国王、群臣をつかはして奪ひ取らんとす。この泥をば踏み行けどもしらずしてかへる。そののちこの女人取りいだして商ふに、さきよりもなほ富貴になる」。これはこれ、たとへなり。「国王」といふはわが身の心王にたとふ、「宝」といふは諸善にたとふ、「群臣」といふは六賊にたとふ。かの六賊に諸善を奪ひ取られて、たつ方もなきをば出離の縁なきにたとふ。「泥中よりこがねを取りいだして富貴自在になる」といふは、念仏三昧によりて信心決定しぬれば、須臾に安楽の往生を得るにたとふ。「穢物につつみて泥中におく」といふは、五濁の凡夫、 穢悪の女人を正機とするにたとふるなり。

薪火不離の喩え

【23】 一、たきぎは火をつけつれば、はなるることなし。「たきぎ」は行者の心にたとふ、「火」は弥陀の摂取不捨の光明にたとふるなり。心光に照護せられたてまつりぬれば、わが心をはなれて仏心もなく、仏心をはなれてわが心もなきものなり。これを南無阿弥陀仏とはなづけたり。


安心決定鈔 末