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自力念仏

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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じりき-ねんぶつ

 阿弥陀仏の本願力によらず、自己の行ずる念仏の功徳で往生を遂げようという心でとなえるえる念仏のこと。
そもそも、念仏とは選択本願の阿弥陀仏の回向したまう行業であり自力念仏ということはあり得ない。念仏は、因位の法蔵菩薩が選択された往生浄土の行法であるからである。しかして、『阿弥陀経』に説く、

舎利弗、不可以少善根福徳因縁得生彼国。
舎利弗、少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。

の文に着目し「多善根福徳因縁」の大善大功徳である念仏を自らの功徳であると取り違えて修するから自力の行業になってしまうのであった。 御開山は、その真門の意を、

真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(化巻 P.399)

と、「教は頓にして根は漸機なり」といわれていた。念仏(なんまんだぶ)は、頓に往生成仏の法であるのだが、それを行ずる根機が罪福を信ずる心〔信罪福心〕によって自力の法にしてしまうのである。なんまんだぶ(名号)には真仮は無いのだが機の失によって自力念仏に堕すのであった。
御開山が、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。 (化巻 P.412)

と、された所以である。御開山は仏道の正因として、信心正因(横超の菩提心正因)を示されたのであった。それが行信不離の、

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。(信巻 P.245)

であった。自力の名号(なんまんだぶ)は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」とされた所以である。

閑話休題

時々、自力の念仏と他力の念仏を、能動所動能所)の語に幻惑されて「私にはお念仏が出ません」という門徒がいる。便秘なら出ませんということもあろうが、なんまんだぶが口から出ないなら努力して舌を動かして〔なんまんだぶ〕と称えればいいのである。
「信心正因 称名報恩」という真宗坊主の説く言葉に幻惑されて名体不二のなんまんだぶが称えられないのであろう。TPOを考慮せずになんまんだぶを称え、周囲から「癖念仏」と揶揄されていたばあちゃんが悩んでいたときに、じいさんが、たとえ癖の空念仏でも阿弥陀様が実を入れて受け取って下さるから、こっちが心配するなと言っていたものである。
深川倫雄和上は、

 我々のご法義は、己を空しくして唯信仏語、如来の招喚を信受する、信心をもって本と致しまして、報謝は末であります。信心の智恵に入ってこそ、仏恩報ずる身となるのであります。ご恩報謝の称名と言いましても、称えられるのは、お六字。称えるのは私の仕事、私の仕事がご恩報謝であります。称えようと思う心は私の思い。舌を動かし声を出すのは私の仕事でありまして、これがご恩報謝であります。ご報謝は努力であります。信は仏智の大悲にすがり、報謝は行者の厚念に励むべしとあります。信心は如来さまのお仕事、ご報謝は私の努力であります。 (*)

と、なんまんだぶを称えなさいよ、とのお示しであった。ありがたいこっちゃな。