にょぜ
経の冒頭の「如是我聞(かくのごとく、われ聞きたてまつりき)」、我聞如是「われ聞きたてまつりき、かくのごとく」の如是。 信心をあらわす語。(信巻 P.241,化巻 P.384,浄文 P.496)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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「信巻」信楽釈で、
- 「経の始めに<如是>と称することは、信を彰して能入とす」。(信巻 P.241,論註 P.157)
とある。
『智度論』では経のはじめの「如是」を釈し、
- 問曰 諸佛經何以故 初稱如是語。
- 問うて曰く、諸の仏の経は、何を以つての故に、初めに如是の語と称すや。
- 答曰。佛法大海信爲能入。智爲能度。
- 答えて曰く、仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。
- 如是義者 即是信。若人心中有信清淨。是人能入佛法。
- 「如是」の義とは、即ち是れ信なり。もし人、心中に信有りて清浄ならば、是の人は、能(よ)く仏法に入る。
- 若無信 是人不能入佛法。不信者言是事不如是。是不信相。
- もし信無ければ、この人は仏法に入ること能わず。不信の者は、この事は是の如くならずと言えり。是れ不信の相なり。
- 信者言是事如是。
- 信ずる者は、是の事は是の如しと言う。(大智度論)
とあり、「仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為(な)す」といわれていた。一般に仏教では信解行証といい、『智度論』の「仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す」とは、仏の教えを信じ理解して修行し証(さとり)を得ることをいふのであって信は仏道へ入る初門であった。ところが御開山は、善悪・浄穢を選ばない阿弥陀仏の本願を信楽することを「信」であるとして『華厳経』を引文され、
- 信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。(信巻 P.238)
とされ、浄土真宗は信心の宗教であるとされた。それが阿弥陀如来の回向する菩提心である信心を受け容れることによってに「涅槃無上道」の仏に成る成仏道であった。如是我聞の「聞」である信とは
- 「しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、「仏願の生起本末」を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」(信巻 P.251)
の、疑心あることなしの「聞」である信であった。
- →聞思して遅慮することなかれ
- →聞即信
- →聞見
- →信巻 P.250『涅槃経』聞不具足の文
- →聞不具足
- →『涅槃経』迦葉品