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施したまふところ趣求をなす

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施(ほどこ)したまふところ趣求(しゅぐ)をなす

 通常は「なしたまひ、おほよそ施為・趣求(せい-しゅぐ)するところ、またみな真実なるによりてなり」と読む。「施為」は利他、「趣求」は自利の意。
親鸞聖人は、如来の回施された真実をもちい(領受し)て、浄土を趣求(願生)するという意味に転じられた。(信巻 P.217)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 善導大師の至誠心釈では、

「一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきこと」(散善義 P.455)

を明かすとして、阿弥陀仏因中法蔵菩薩の行と等しい行を修す心が至誠心であるとされていた。法然聖人が「善導において二へんこれを見るに往生難しと思えり」(醍醐本法然上人伝記) といわれた所以である。
なお、法然聖人は『三部経大意』で善導大師の至誠心釈を挙げて、

「もしかの釈のごとく、一切の菩薩とおなじく諸悪をすて行住座臥に真実をもちゐるは悪人にあらず、煩悩をはなれたるものなるべし。かの分段生死をはなれ、初果を証したる聖者、なほ貪・瞋・痴等の三毒をおこす。いかにいはむや、一分の悪おも断ぜざらむ罪悪生死の凡夫、いかにしてかこの真実心を具すべきや」(三部経大意#P--788)

といわれ、善導大師の至誠心釈に総 (自力)と別 (他力)の二種の至誠心をみられていた。
親鸞聖人は、この法然聖人の意を承けて本願力回向の立場から至誠心釈の訓点を大胆に変えて読まれたのである。罪悪生死の凡夫には真実の至誠心は無いからであった。→二種深信

善導大師の当分
欲廻此雑毒之行 求生彼仏浄土者 此必不可也。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
何以故 正由彼阿弥陀仏因中行菩薩行時 乃至一念一刹那 三業所修 皆是真実心中作 凡所施為趣求 亦皆真実
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。(散善義 P.455)
御開山の訓
欲回此雑毒之行 求生彼仏浄土者 此必不可也。
この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。
何以故 正由[由字]{以周反経也行也従也用也}彼阿弥陀仏 因中行菩薩行時 乃至一念一刹那 三業所修 皆是真実心中作。凡所施為趣求 亦皆真実。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。(信巻 P.217)

善導大師の当分では、往生を願う衆生は法蔵菩薩の真実と同じような真実の施為(せい) (利他)・趣求(しゅぐ) (自利) の行をなせという意であった。
御開山は、凡夫には真実はあり得ないという立場から、法蔵菩薩の真実の心においてなされた五劫兆載永劫修徳回向に由るとし(経=如来を経て、行=如来の行を行じて、従=如来により従がって、用=如来のまことを用いて)であると領解された。因位の阿弥陀仏の施したまふ所(真実) の至誠心をもちいて趣求(願生)することが至誠心であるとされた。二種深信の第一である、出離の縁あることなき「罪悪生死の凡夫」に施したまうのが阿弥陀如来の至誠心(真実)であるとみられたのである。その阿弥陀仏因中の真実心に由るとされた嚆矢は[醍醐本]に依れば法然聖人であった。

三心料簡および御法語の訓読 
トーク:三心料簡および御法語
施為趣求
三心料簡および御法語
『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引
参照WEB版浄土宗大辞典の「至誠心」の項目