最要鈔
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覚如上人(1270-1351)が康永二年(1343)に次男である従覚に口述筆記させ、道源に与えた書。 元弘元年(1331)に著された『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」を往生の名目を使わずに、身命終、心命終として心命終は迷情の自力心の終りであり「住正定聚のくらいにもさだまれば、これを即得往生といふべし」と即得往生は正定聚であることに言及されている。 第十八願と本願成就文を引き、本願成就文の「聞」で示される信心は回向された仏心である信心であるとする。また第十一願を引き、回向された信を受容する者は正定聚であるから必ず滅度に至るのであり、成就文の「即得往生」は、摂取不捨のゆえに信一念の時に自力の心命が尽きて、往生は治定すると説く。『愚禿鈔』の「本願を信受するは、前念命終なり」、「即得往生は、後念即生なり」の文によって、命終には心往生と身往生の二種があるとされた。いわゆる臨終を待つまでもなく、平生に他力の信心をえたそのときに浄土に生れることが確定する、平生業成の宗義を顕彰しておられる。
- 最要鈔
『大无量寿経』(巻上)に言、
「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚。唯除五逆誹謗正法。」
同く願成就文。『経』(大経*巻下)に言、
「諸有衆生聞其名号、信心歓喜、乃至一念至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転、唯除五逆誹謗正法。」
また『教行信証』(行巻)にいはく、
この文のこゝろは、弥陀仏の本願を憶念するとき、たちどころに必定にいるとみえたり。「必定」といふは、すなはち四十八願のなかの第十一の必至滅度の願なり[1]。「自然」といふは、如来の本願力をもて往生を治定せらるゝこゝろなり。来迎をたのまず臨終を期せざる義あきらけし。しかれば、経釈ともに本願の生起をきゝうる時分にあたりて往生を得証する条、文にありてあきらけし。ひとみなおもへらく、果縛の穢体やぶるゝときならでは往生の行業成ずべからずと。しかるにその条、僻案なり。そのゆへは善悪の二報しからず。まづ性相のさだむるところの悪業を平生のとき造作する時分に、三悪必堕の業因、最後終焉にさきだちて治定するにあらずや。造悪につきて生処臨終にあらずといへども治定する義必然ならば、善悪は相対の法なれば、善業もまたあひかはるべからず。これによりて往生の心行を獲得すれば、終焉にさきだちて即得往生の義あるべし[2]。仮令身心のふたつに命終の道理あひかはるべき歟。无始よりこのかた生死に輪廻して、出離を悕求しならひたる迷情の自力心、本願の道理をきくところにて謙敬すれば、心命つくるときにてあらざるをや。そのとき、住正定聚のくらゐにもさだまれば、これを即得往生といふべし。善悪の生処をさだむることは心命のつくるときなり、身命のときにあらず。しかれば、臨終を期すべからざる義、道理・文証あきらけし。信心歓喜乃至一念のとき、即得往生の義治定ののちの称名は仏恩報謝のためなり。さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず。「応報大悲弘誓恩」と釈したまへるにてこゝろうべし。大概これをもて思釈すべきなり。
康永二歳 癸未 四月廿六日
大谷殿御法聞也。為目良寂円房道源於御病中従覚右筆記之。
- 大谷殿の御法聞なり。目良寂円房道源の為に御病中に於いて従覚右筆しこれを記す。
- ↑ 第十一願文「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」。御開山は「証文類」でこの第十一願を挙げ定聚と滅度を示す願とされている。(証巻 P.307) (かの国に生れんとするものは
- ↑ ここでは本願成就文の即得往生を正定聚に就き定まることであると言われている。これは『愚禿鈔』の「本願を信受するは、前念命終なり」(愚禿上 P.509)以下の釈を享けておられる。この意を『口伝鈔』では「体失不体失の往生の事」としてあらわされたのであろうが、不体失往生という表現は語義からの逸脱のようにも思える。→前念命終 →体失不体失の往生の事
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820754