浄信
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
じょうしん
Ⅱ 『交名牒(きょうみようちょう)』には「七条次郎入道洛中居住弟子」とある。また『末灯鈔』の諸本には「高田門人」と伝えるものもある。(消息 P.778)
Ⅲ 第二十通の浄信との同異不明。(消息 P.794)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 浄信
きよらなか信心の意で、他力信心のこと。衆生の顛倒・うそいつわりの心からではなく、真如にかなった阿弥陀仏の清らかな願心から起こり、衆生に回向された信心であるからこのようにいう。
『浄土文類聚鈔』には、
とある。(浄土真宗辞典)
浄信という語の出拠は『無量寿経』の成就文の
の一念を、異訳の『無量寿如来会』では、
と一念の浄信とあるのが出拠である。御開山は乃至の語を略しておられる。「信」とは梵語プラサーダ(Prasada)の漢訳で、「信心」「信楽」「浄信」などと翻訳された。「濁った心を浄化するはたらき」「心をしずめる」「清らかな心にならしめる」という意味を持つ。仏陀の教えを聞くことによって、心が清らかに澄みわたることをいう。
法然聖人は、本願成就文の一念(大経 P.41) を本願文の「乃至十念」の意から、行に信を摂した「行の一念」であるとされていた。しかし御開山は「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」の信心歓喜の信心の語から、本願成就文の一念の文は「信の一念」に親しいとされたのであった。そして、この『無量寿如来会』の「一念の浄信」の語から本願成就文の一念は、本願力回向の「信の一念」を意味する言葉であると御開山は領解されたのである。
『倶舎論』巻四では、信は清浄の義とする。→『倶舎論』大善地法
- 彼法是何。
- 彼の法は、これ何ぞ。
- 頌曰、
- 頌に曰く、
- 信及不放逸 輕安捨慚愧
- 信と、および不放逸と、軽安と、捨と慚と愧と、
- 二根及不害 勤唯遍善心
- 二根とおよび不害と、勤とは、ただ善心にのみ遍ず。
- 論曰。如是諸法唯遍善心。
- 論じて曰く。是の如き諸法は、唯、善心に遍ず。
- 此中信者。令心澄淨。
- この中に信は、心をして澄浄ならしむ。
- 有説。於諦實業果中現前忍許故名爲信。
- 有るが説く。〔四〕諦、〔三〕宝、業〔因〕、果の中に於いて、現前に忍許するが故に名けて信となす。→国訳
➡ P:10,P:132,P:211,P:213,P:235,P:236,P:250,P:436,P:454,P:478,P:480,P:481,P:483,P:484,P:486,P:627,P:778,P:782,P:795,P:874,P:986