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名号

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

みょうごう

 一般にはすべての菩薩の名前を名号という。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名を指していう。浄土真宗では「南無阿弥陀仏」を六字の名号といい、その徳義をあらわした「南無不可思議光仏」を八字の名号、「南無不可思議光如来」を九字の名号、「帰命尽十方無碍光如来」を十字の名号という。→名号画像
曇鸞大師は、帰命尽十方無碍光如来の名号には、衆生無明を破し、往生成仏の志願を満たす徳があるといい、善導大師は、南無阿弥陀仏には願と行が具足しているからよく往生の行となるといい、法然上人は、名号には阿弥陀仏のもつ無量の徳が具わっているといわれる。そして親鸞聖人は、仏の衆生救済の願いが名号となってあらわれているのであり、摂取して捨てないという仏意をあらわす本願招喚の勅命であると説いた。(巻末註) →補註10

名号

 ここでは称名の意。(信巻 P.245)

 ここでは信心を得た後の称名のこと。(御文章 P.1126)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は、仏名の建立として、

台教祖師山陰云
良由仏名 
真応身而建立故 
従慈悲海而建立故 
従誓願海而建立故 
従智慧海而建立故 
従法門海而建立故 
若但専称一仏名号 
則是具称諸仏名号。
功徳無量 能滅罪障。能生浄土。何必生疑乎。{已上}
台教の祖師山陰のいはく、
「まことに仏名は真応の身よりして建立せるがゆゑに、慈悲海よりして建立せるがゆゑに、誓願海よりして建立せるがゆゑに、智慧海よりして建立せるがゆゑに、法門海よりして建立せるによるがゆゑに、もしただもつぱら一仏の名号を称するは、すなはちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なればよく罪障を滅す。よく浄土に生ず。なんぞかならず疑を生ぜんや」と。(行巻 P.177)

と、されていた。そして、法位の言を引いて、

法相祖師法位云
諸仏皆徳施名。称名即称徳。徳能滅罪生福 名亦如是。若信仏名 能生善滅悪 決定無疑。称名往生 此有何惑。{已上}
法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、
「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。 (行巻 P.183)

と、諸仏はみな徳を名に施すとされていた。[1]
それが、なんまんだぶの本願招喚の勅命であり、

況我弥陀 以名接物。是以耳聞口誦 無辺聖徳攬入識心。永為仏種 頓除億劫重罪 獲証無上菩提。 信知 非少善根 是多功徳也。{已上}
「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」と。(行巻 P.180)

という、可聞可称の名号法による救いであった。

名体不二
名号度生
垂名示形
名号画像
安心論題/必具名号 を参照のこと。

参照WEB版浄土宗大辞典の「名号」の項目


  1. 『華厳経探玄記』には「体を召するを名と為し、徳を標するを号と為す」とあり、名は「呼召」(まねきよぶこと) の義で、物自体を呼びあらわす名称であり、号とは物自体にそなわった徳を標しあらわす義である、とする。