漸頓
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ぜんとん
漸教と頓教。 →
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『御消息』第十三で、
と、弥勒菩薩のさとりを、「かれは漸頓のなかの頓」とされているので、弥勒菩薩のさとりも頓ではないのかと受け取りやすい。特に第一版では「漸・頓」と二項対立表現になっているので理解しにくい。少しくややこしいので梯實圓和上の講義録から該当部分を引用した。
「かれは漸・頓のなかの頓、これは頓のなかの頓なり」この「漸・頓のなかの頓」というのは寧ろ「漸頓のなかの頓」と表現した方が良いです。この真ん中の「・」は要りません。今度の改訂の時に変えます[1]。聖道門というのは一瞬のうちに悟りが開けると理論的にはそういうだけで実際の修行という事になると長い時間がかかるのです。頓というけれども、それは漸の中の頓である。つまり「漸頓のなかの頓」漸頓といわれるような頓であるというのです。これは法然聖人が聖道門の修行というのは天台でいえば六即の即の位からいえば頓だけれども六のくらいからいえば漸だ。華厳でいえば円融門では頓だけれども行布門では漸だという風にいわれております。真言でもそうで即身成仏と、この身このまま仏になるというのです。建て前はそうです。しかし実際に仏になるのは、それこそ無量永劫の修行をしなければならないという事なのです。加持成仏という事は現身において言えるけれども顕得成仏といいまして実際に如来の悟りを完成するのは無量永劫の修行をしなければだめだという事になります。これは天台でも真言でも華厳でも全てそうです。だから速やかに悟りを開くと言うけれども、それは建て前であって実際の修行という事になると、そんな簡単なものではない。生まれ変わり死に変わり修行を続けなければ悟りは完成しないというのですから漸頓といわれるような頓教なのだ[2] 。それに対してこの浄土真宗の教えは頓の中の頓である。それは最高の頓教であるという事です。煩悩具足の凡夫が命が終われば仏の悟りを開くというまことに不可思議の法である。
第一版が「漸・頓」と並列の区切り記号である中黒(・)を入れたから漸と頓の二項対立のように受け取ると、弥勒菩薩のさとりも漸と頓の頓であるといふことになり、「漸頓のなかの頓」といふ意味が解らなくなる。
御開山には「二双四重」の教判があり、自力聖道門の中の頓教を認めておられる。しかし自力聖道門では、たとへ一生補処の弥勒菩薩といへども、仏に成るには五十六億七千万歳といふ時間を要するのであった。故に「漸頓のなかの頓」といふのである。
それに比べれば、他力浄土門は阿弥陀如来の本願力によって成就された浄土を目指す仏法であるから、仏力による「頓のなかの頓」のご法義であった。
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。(信巻 P.264)
といふ、念仏といふ行と信の超勝性を説く所以である。なんまんだぶ なんまんだぶ