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執持鈔

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 題号に示されるように阿弥陀仏の名号を信受し、かたく執持(とりたもつ)する他力信心の要義を説示された書である。本文は5箇条の法語より構成され、前4条は親鸞聖人の法語により、後1条は第3代宗主覚如上人みずからのお心を述べられ、信心を正しくたもつことを勧められている。
 まず第1条は、平生業成の宗義について論じられている。臨終来迎は臨終業成を説く諸行往生の行者においていうところであり、第十九願のこころである。これに対して、第十八願の他力信心の行者は、摂取不捨の利益にあずかって、この世で正定聚に住するから、臨終の来迎を期待しない旨が示されている。
 第2条は、往生浄土のためには信心が根本であって、ただひとすじに阿弥陀如来にまかせまいらせるべきであるといい、師教に随順すべきことを法然・親鸞両聖人の関係の上より論じられている。
 第3条は、阿弥陀仏の浄土への往生は、凡夫のはからいによるのではなく、阿弥陀如来の大願業力のすぐれた因縁による旨を善導大師の釈文により説明されている。
 第4条は、光明(縁)名号(因)の因縁を信ずるという他力摂生の旨趣が述べられている。
 第5条は、信一念往生・平生業成という真宗教義の要義についての覚如上人の自督が説示されている。

 乗専の『最須敬重絵詞』に、「平生業成の玄旨これにあり、他力往生の深要たふとむべし」と本書の旨趣を要約している。


執持鈔

(1)
一 本願寺聖人(親鸞)の仰せにのたまはく、

 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心行人摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。

(2)
一 またのたまはく、

 「是非しらず邪正もわかぬ この身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃・一一六)。
往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期することさらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(3)
一 またのたまはく、

 光明寺の和尚[善導の御こと]の『大無量寿経』の第十八の念仏往生の願のこころを釈したまふに、「善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁」(玄義分 三〇一)といへり。

このこころは、善人なればとておのれがなすところの善をもつてかの阿弥陀仏の報土へ生るること、かなふべからずとなり。悪人またいふにや及ぶ。おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくよりほか、あに報土の生因たらんや。しかれば善業も要にたたず、悪業もさまたげとならず。善人の往生するも、弥陀如来の別願、超世の大慈大悲にあらずはかなひがたし。

悪人の往生、またかけてもおもひよるべき報仏・報土にあらざれども、仏智の不可思議なる奇特をあらはさんがためなれば、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを行じて、かかるあさましきものが、六趣・四生よりほかはすみかもなくうかむべき期なきがために、とりわきむねとおこされたれば、悪業に卑下すべからずとすすめたまふむねなり。さればおのれをわすれて仰ぎて仏智に帰するまことなくは、おのれがもつところの悪業、なんぞ浄土の生因たらん。すみやかにかの十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ、なにの要にかたたん。

しかれば善も極楽に生るるたねにならざれば、往生のためにはその要なし、悪もまたさきのごとし。しかればただ機〔の〕生得の善悪なり。かの土ののぞみ、他力に帰せずはおもひたえたり。これによりて「善悪凡夫の生るるは大願業力ぞ」と釈したまふなり。「増上縁とせざるはなし」といふは、弥陀のちかひのすぐれたまへるにまされるものなしとなり。

(4)
一 またのたまはく、

 光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。

しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃 六五九)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。

しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。

本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。

(5)
一 わたくしにいはく、

 根機つたなしとて卑下すべからず、仏に下根をすくふ大悲あり。行業おろそかなりとて疑ふべからず、『経』(大経・下)に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆゑに臨終にふたたび名号をとなへずとも、往生をとぐべきこと勿論なり。一切衆生のありさま、過去の業因まちまちなり。また死の縁無量なり。病にをかされて死するものあり、剣にあたりて死するものあり、水におぼれて死するものあり、火に焼けて死するものあり、乃至、寝死するものあり、酒狂して死するたぐひあり。これみな先世の業因なり、さらにのがるべきにあらず。かくのごときの死期にいたりて、一旦の妄心をおこさんほか、いかでか凡夫のならひ、名号称念の正念もおこり、往生浄土の願心もあらんや。

平生のとき期するところの約束、もしたがはば、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。

そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分 三二五)と釈したまへり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業を結ぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏もまたかくのごとし。本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。


 [本にいはく

嘉暦元歳丙寅九月五日、老眼を拭ひ禿筆を染む、これひとへに衆生を利益せんがためなり。]
[釈宗昭五十七]
[先年、かくのごとく、予、筆を染めて飛騨の願智坊に与へをはりぬ。しかして、今年暦応三歳庚辰十月十五日、この書を随身して上洛。なかの一日逗留、十七日下国。よつて灯下において老筆を馳せてこれを留む、利益のためなり。]
[宗昭七十一]