無帰命安心
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
むきみょうあんじん
むきみょうあんじん 無帰命安心
法体づのり・頼まず秘事などともいう。阿弥陀仏が衆生の救いをすでに完成しているのであるから、衆生は阿弥陀仏への帰命がなくても往生できるとする理解。信心を不要とするものであり、 真宗では異安心とされる。(浄土真宗辞典)
法体 づのり。
阿弥陀如来の本願力回向の救済を、そのまま 救うや、この身このままとか、阿弥陀仏の大悲におまかせするのが信心だとかいい、阿弥陀様がすでに兆載永劫に衆生済度にご苦労なさってきたのだから、いまさら、私の「信心」や「念仏」は不要であるといふ理解を法体づのりといふ。このように、まるで金魚掬(すく) いのように浄土真宗の「他力」の救済を把握していることを法体づのりといふ。つのりとは、救いの法体に対する関心(つのり) が一方にますます増長し阿弥陀如来の衆生済度の「他力」の済度の本質を見失う意である。安心の廃立が欠けているからである。
このように、他力を無力と誤解して、まるで金魚掬いのように浄土真宗のご法義を理解することを梯實圓和上は、
如来様が救うというのは金魚掬(すく)いと違うのです。金魚掬いだったら、こちらの汚い泥水の金魚鉢でアップ・アップしている金魚を掬って綺麗な水の金魚鉢に入れ換えてやる。これでも一応は救ったように見えますけれども、これは金魚掬いです。金魚は金魚です。少しも変わってはいません。やはり転換がなされねばなりません。根源的に人間の、そのあり方、その心の方向というものに転換が行われていく。金魚が金魚でなくなる世界が一つある。なるほど金魚は形は金魚であっても金魚でなくなる所が一つなけれはならない。→「金魚掬いの救いと磁石のはたらき」
と、示しておられた。なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいことである。