廃立
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
はいりゅう
二者を比較して優劣、または難易を分別して、一方を廃し、一方を真実として立てること。仮に用いた方便を廃し捨てて、真実を立てあらわすこと。ここは聖道門を廃して浄土門を立てること。(改邪鈔 P.931, 一代記 P.1286)
二者の難易、勝劣などを判別して、一方を廃し、一方を真実として立てること。ここでは阿弥陀仏の身土[1]を応身応土とする説を廃して、報身報土とする説を立てること。→三身#報身 (口伝鈔 P.891)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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はい-りゅう 廃立
仮のもの(
法然聖人は三選の文で、
と聖道 対 浄土(
法然聖人は、阿弥陀仏が称名念仏(なんまんだぶ)を往生の行として選択された理由を『選択本願念仏集』「本願章」で「勝劣義」(選択集 P.1207) と「難易義」(選択集 P.1208) として示された。
また、仏道の修行に廃立・助正・傍正の三義を立て、
- おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。(選択集 p.1220)
と、諸行と念仏を廃立されておられた。なお、御開山には廃立の義はあるが直接の廃立といふ言葉は無い。
御開山は、法然聖人の「選択本願念仏」の選択という廃立を示す指示によって教体・行体そのものについて廃立を行い天台の開廃会の義は用いない。そして徹底的に自力と他力(利他力、仏力)の廃立を論ずる。浄土真宗が仏教の中でも妥協を許さないラジカルな法義であるといわれる所以である。
御開山は「行巻」で諸師の引文の結論として、法然聖人の『選択本願念仏集』の「三選の文」を引かれる(行巻 P.185)。
御開山は
- 「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」(歎異抄 P.832)
といわれるほど忠実な弟子であった。このような御開山ならば、主著の『教行証文類』には『選択本願念仏集』からの引文が溢れるほどある筈である。しかし引文は『選択本願念仏集』の劈頭の文「南無阿弥陀仏{往生之業 念仏為本}」「隠/顕」南無阿弥陀仏{往生の業には念仏を本となす}と、以下の三選の文だけである。(正信念仏偈の偈文を除く)
先達はこの意を、『選択本願念仏集』の始めと結論の「三選の文」を挙(あ)げることによって『選択本願念仏集』全部を引文されたのであるとする。そのような意味において、上記の「三選の文」は、選択本願念仏という念仏一行の選択による廃立を論じられる御開山にとって重要な意味を持っていたのであろう。なお、三選の文とは、文章中に選の字が三つあるので三選の文という。この文は『選択本願念仏集』の結論なので「略選択」とも呼称する。
御開山が「大経和讃」の結論として、
とされた意である。
- 深川倫雄和上は、安心は廃立にあり、行化(修行と教化)はさもあらばわれ、と仰っておられた。
- ↑ 身土(しんど)。仏身と仏土のこと。