「招喚したまふの勅命」の版間の差分
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− | 「[[信心正因]] [[称名報恩]] | + | 「[[信心正因]] [[称名報恩]]」という真宗坊さんの説く硬直しドグマ化された言葉に幻惑されて、信が無ければ称名をしてはいけないと誤解して、「[[名体不二]]」のなんまんだぶが称えられないのであろう。TPO(時と所と場合)を考慮せずになんまんだぶを称え、周囲から「くせ念仏」と揶揄されていたばあちゃんが悩んでいた。そのときに、じいさんが、たとえ癖の<kana>空(から)</kana>念仏でも阿弥陀様が実を入れて受け取って下さるから、こっちが心配するな、と言っていたものである。<br /> |
− | 樹の枝は風がふくから動くのであり枝が動いたから風がふくのではない。自力念仏とは我が動いて大悲の風を起こそうというのであろう。大悲の風は倦むことなく常に[[招喚したまふの勅命]] | + | 因幡の源左同行は、 |
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+ | 樹の枝は風がふくから動くのであり枝が動いたから風がふくのではない。自力念仏とは我が動いて大悲の風を起こそうというのであろう。大悲の風は倦むことなく常に[[招喚したまふの勅命]]としてふいているのであった。<br /> | ||
+ | 「風にふかれ信心申して居る」([[JWP:尾崎放哉|尾崎放哉]])という句がある。「信心申して」という表現は秀逸である。なんまんだぶと称えることは信であり、これを「称即信 (名を称えることが即ち信心)」というのである。<br /> | ||
深川倫雄和上は『[[領解文]]』を釈して、 | 深川倫雄和上は『[[領解文]]』を釈して、 | ||
− | : | + | : さてこの御たすけの法を頂き、ご恩尊やと称え<kana>且(か)</kana>つ聞いて慶ぶ所を、「このうへの称名はご恩報謝と存じ」と出言しました。ここに称名はご恩報謝というのは、称名の'''称'''、即ち称えるということが報謝であるということであります。 |
− | : 称えるのは私、称えられるのが'''名'''号。称えようと思う心も、舌を動かし息を出す仕事も私のすることで、これはご恩報謝。'''称えられる名号は、如来回向の[[正定業]]であります'''。お六字の意味を「有り難うございます」と領解してはなりません<ref>称名報恩の報恩には、お助け下さってありがとうございますという意もないことはないのだが、ともすればgive and take の人間間の取引関係のように誤解されるからのご注意である。「[[安心論題/十念誓意]]」</ref> | + | : 称えるのは私、称えられるのが'''名'''号。称えようと思う心も、舌を動かし息を出す仕事も私のすることで、これはご恩報謝。'''称えられる名号は、如来回向の[[正定業]]であります'''。お六字の意味を「有り難うございます」と領解してはなりません<ref>称名報恩の報恩には、お助け下さってありがとうございますという意もないことはないのだが、ともすればgive and take の人間間の取引関係のように誤解されるからのご注意である。「[[安心論題/十念誓意]]」</ref>。本願に「[[乃至十念]]」とありまして、称名は信仰生活の第一です。何はともあれ、お称名をして暮らすことであります。 [http://www.hongwan.net/index.php/%E6%94%B9%E6%82%94%E6%89%B9%E5%88%A4_(%E5%B9%B3%E6%88%907%E5%B9%B4) (平成7年「改悔批判」)] |
− | と、なんまんだぶを称えて聞きなさいよ、とのお示しであった。「'''称''' | + | と、なんまんだぶを称えて聞きなさいよ、とのお示しであった。「'''称'''」はわたくしの報謝の努力であり、「'''名'''(号)」として聞えて下さるのが「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ<ref>「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」を、[[第十八願]]の至心・信楽・欲生我国の[[約仏]]の三信に配当すれば、至心は、そのまま来いよ、信楽は、間違わさんぞ、欲生我国は、待っておるぞであろう。それが乃至十念の、なんまんだぶという声の「招喚したまふの勅命」であった。</ref>」という「[[本願招喚の勅命]]」であった。<br /> |
− | + | 真宗の学僧大厳師<ref>大厳(だいごん)。寛政三年(1791)~安政(1856)。長門教専寺の住職。石見高津(浜田市高津)の人。履善に学び、[[能行]]説をを唱えた。文政6年教専寺に入る。儒学を修めて萩で易経を講じた。</ref>は、 | |
:罔極仏恩報謝情 (罔極<ref>罔極(もうきょく、もうごく)。きわまりのないこと。</ref>の仏恩報謝の情) | :罔極仏恩報謝情 (罔極<ref>罔極(もうきょく、もうごく)。きわまりのないこと。</ref>の仏恩報謝の情) | ||
:清晨幽夜但称名 (清晨幽夜<ref>清晨(せいしん)。明け方。幽夜(ゆうや)。しずかな夜。 </ref>ただ称名) | :清晨幽夜但称名 (清晨幽夜<ref>清晨(せいしん)。明け方。幽夜(ゆうや)。しずかな夜。 </ref>ただ称名) | ||
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と、なんまんだぶという自らの称える声に[[本願招喚の勅命]]を聞かれたのであった。<br /> | と、なんまんだぶという自らの称える声に[[本願招喚の勅命]]を聞かれたのであった。<br /> | ||
− | + | この漢詩の意を、原口針水和上<ref>原口針水 (1808-1893)本願寺派の学僧。院号は見敬院。光照寺(熊本県山鹿市)住職。曇龍に師事。また長崎で宣教師からキリスト教を学び、慶応4年(1868)には学林の破邪顕正御用係に任じられるなど、キリスト教対策にあたった。明治6年(1873)勧学。明治24年(1891)大学林(現在の龍谷大学綜理に就いた。門下から島地黙雷が出ている。著書に『安楽集講録』などがある。</ref>は、より解りやすく和語にされ、 | |
:我れ称へ 我れ聞くなれど | :我れ称へ 我れ聞くなれど | ||
− | :: | + | ::南無阿弥陀 つれてゆくぞの 弥陀のよび声 |
と、讃詠されたのであった。甲斐和理子さんは、 | と、讃詠されたのであった。甲斐和理子さんは、 | ||
:み仏(ほとけ)の み名を称える | :み仏(ほとけ)の み名を称える | ||
::わが声は わが声ながら 尊かりけり | ::わが声は わが声ながら 尊かりけり | ||
− | + | と詠っておられたのであった。越前のなんまんだぶの門徒は、本願寺の大谷光瑞門主の言葉とされる、 | |
+ | :我、名号となりて衆生に到り衆生とともに浄土へ往生せん、若し衆生生まれずば 我も帰(還)らじ | ||
+ | の句を、 | ||
+ | :われ、名号となりて衆生に至り、衆生かえらずんば、われもまた還らじ | ||
+ | と、なんまんだぶを称え、第十八願の、 | ||
+ | :<kana>乃至十念(ないし-じゅうねん)</kana> <kana>若不生者(にゃくふ-しょうじゃ)</kana> <kana>不取正覚(ふしゅ-しょうがく)</kana>(乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)。 | ||
+ | の意を味わっていたのであった。 | ||
+ | 生死に呻吟している人生に「わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(欲生我国 乃至十念)」([[大経上#18gan|大経 P.18]]) と、なんまんだぶと呼ばれて、なんまんだぶと帰る浄土があるとは、ありがたいこっちゃな。なんまんだぶ なんまんだぶ | ||
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+ | :→[[hwiki:称えるままに本願を聞く]] | ||
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2024年2月13日 (火) 13:18時点における版
- 招喚したまふの勅命
時々、念仏を、自力の念仏と他力の念仏に分けて、自分が称える念仏の能行説(能動)と阿弥陀仏に称えさせられる念仏の所行説(所動)の能所の語に幻惑されて「私にはお念仏が出ません」という門徒がいる。便秘なら出ませんということもあろうが、なんまんだぶが口から出ないなら努力して舌を動かして〔なんまんだぶ〕と称えればいいのである。
「信心正因 称名報恩」という真宗坊さんの説く硬直しドグマ化された言葉に幻惑されて、信が無ければ称名をしてはいけないと誤解して、「名体不二」のなんまんだぶが称えられないのであろう。TPO(時と所と場合)を考慮せずになんまんだぶを称え、周囲から「くせ念仏」と揶揄されていたばあちゃんが悩んでいた。そのときに、じいさんが、たとえ癖の
因幡の源左同行は、
- 念佛にや しいらはないけつど
- 人間が しいらだがのう
- しいらでも 称えなんすりや 実がいつでのう
- *しいら 粃・秕(しいな)、から(殻)ばかりで実のない籾(もみ)。十分にみのっていない籾。しいだ。しいなし。しいなせ。しいら。
と、云われていたものであった。
樹の枝は風がふくから動くのであり枝が動いたから風がふくのではない。自力念仏とは我が動いて大悲の風を起こそうというのであろう。大悲の風は倦むことなく常に招喚したまふの勅命としてふいているのであった。
「風にふかれ信心申して居る」(尾崎放哉)という句がある。「信心申して」という表現は秀逸である。なんまんだぶと称えることは信であり、これを「称即信 (名を称えることが即ち信心)」というのである。
深川倫雄和上は『領解文』を釈して、
- さてこの御たすけの法を頂き、ご恩尊やと称え
且 つ聞いて慶ぶ所を、「このうへの称名はご恩報謝と存じ」と出言しました。ここに称名はご恩報謝というのは、称名の称、即ち称えるということが報謝であるということであります。 - 称えるのは私、称えられるのが名号。称えようと思う心も、舌を動かし息を出す仕事も私のすることで、これはご恩報謝。称えられる名号は、如来回向の正定業であります。お六字の意味を「有り難うございます」と領解してはなりません[1]。本願に「乃至十念」とありまして、称名は信仰生活の第一です。何はともあれ、お称名をして暮らすことであります。 (平成7年「改悔批判」)
と、なんまんだぶを称えて聞きなさいよ、とのお示しであった。「称」はわたくしの報謝の努力であり、「名(号)」として聞えて下さるのが「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ[2]」という「本願招喚の勅命」であった。
真宗の学僧大厳師[3]は、
- 罔極仏恩報謝情 (罔極[4]の仏恩報謝の情)
- 清晨幽夜但称名 (清晨幽夜[5]ただ称名)
- 堪歓吾唱雖吾聴 (歓びにたえたり、われ唱えわれ聴くといえども)
- 此是大悲招喚声 (これはこれ大悲招喚の声)[6]
と、なんまんだぶという自らの称える声に本願招喚の勅命を聞かれたのであった。
この漢詩の意を、原口針水和上[7]は、より解りやすく和語にされ、
- 我れ称へ 我れ聞くなれど
- 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 弥陀のよび声
と、讃詠されたのであった。甲斐和理子さんは、
- み仏(ほとけ)の み名を称える
- わが声は わが声ながら 尊かりけり
と詠っておられたのであった。越前のなんまんだぶの門徒は、本願寺の大谷光瑞門主の言葉とされる、
- 我、名号となりて衆生に到り衆生とともに浄土へ往生せん、若し衆生生まれずば 我も帰(還)らじ
の句を、
- われ、名号となりて衆生に至り、衆生かえらずんば、われもまた還らじ
と、なんまんだぶを称え、第十八願の、
乃至十念 若不生者 不取正覚 (乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)。
の意を味わっていたのであった。
生死に呻吟している人生に「わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(欲生我国 乃至十念)」(大経 P.18) と、なんまんだぶと呼ばれて、なんまんだぶと帰る浄土があるとは、ありがたいこっちゃな。なんまんだぶ なんまんだぶ
- ↑ 称名報恩の報恩には、お助け下さってありがとうございますという意もないことはないのだが、ともすればgive and take の人間間の取引関係のように誤解されるからのご注意である。「安心論題/十念誓意」
- ↑ 「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」を、第十八願の至心・信楽・欲生我国の約仏の三信に配当すれば、至心は、そのまま来いよ、信楽は、間違わさんぞ、欲生我国は、待っておるぞであろう。それが乃至十念の、なんまんだぶという声の「招喚したまふの勅命」であった。
- ↑ 大厳(だいごん)。寛政三年(1791)~安政(1856)。長門教専寺の住職。石見高津(浜田市高津)の人。履善に学び、能行説をを唱えた。文政6年教専寺に入る。儒学を修めて萩で易経を講じた。
- ↑ 罔極(もうきょく、もうごく)。きわまりのないこと。
- ↑ 清晨(せいしん)。明け方。幽夜(ゆうや)。しずかな夜。
- ↑ 意訳:極まりなき佛恩報謝の情(こころ)は、すがすがしい朝から静かな夜に到るまで、ただ〔なんまんだぶ〕のみである。歓びに値するにこのうえなし。私が称えて私が聞いているようだが、これぞこれ、阿弥陀仏の大悲をこめて招き喚ばれる呼び声である。
- ↑ 原口針水 (1808-1893)本願寺派の学僧。院号は見敬院。光照寺(熊本県山鹿市)住職。曇龍に師事。また長崎で宣教師からキリスト教を学び、慶応4年(1868)には学林の破邪顕正御用係に任じられるなど、キリスト教対策にあたった。明治6年(1873)勧学。明治24年(1891)大学林(現在の龍谷大学綜理に就いた。門下から島地黙雷が出ている。著書に『安楽集講録』などがある。