操作

「涅槃」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
7行目: 7行目:
 
{{Copyright}}
 
{{Copyright}}
 
----
 
----
 +
{{Tinc|トーク:涅槃}}
 +
 
→[[大般涅槃]]
 
→[[大般涅槃]]
  

2024年9月27日 (金) 23:53時点における最新版

ねはん

Ⅰ 梵語ニルヴァーナ(nirvāņa)の音写。泥洹(ないおん)とも音写し、滅度(めつど)寂滅(じゃくめつ)と漢訳する。すべての煩悩(ぼんのう)を滅したさとりの境地をいう。仏教の究極的な実践目的である。→滅度(めつど)寂滅(じゃくめつ)。(尊号 P.646, 唯文 P.712)

Ⅱ ここでは入滅(にゅうめつ)の意。 (要集 P.1065要集 P.1085要集 P.1111)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:涅槃

ねはん 涅槃

 梵語ニルヴァーナ (nirvāṇa) の音訳。泥恒とも音訳し、滅度寂滅などと意訳する。さとりの境地のこと。すべての煩悩の火が完全に吹き消された境地のことで、仏教の最終的実践目的は涅槃に至ることとされる。仏の入滅をいう場合もある。涅槃について、のちに有余涅槃無余涅槃などと種々に解釈された。亡くなるまでの釈尊は有余涅槃、亡くなることで無余涅槃に入ったとみる。大乗仏教が展開すると、大乗の涅槃は常楽我浄四徳をそなえた無為涅槃であって消滅変化を超えた常住絶対のさとりの境地であるのに対し、小乗の涅槃は四徳をそなえない有為涅槃であるとされた。また、慈悲に基づく衆生救済のために迷いの世界に出向くありかたをいう無住処涅槃や、永遠・常住で本来的に清浄である真如を涅槃の本質とみる自性清浄涅槃が説かれた。(浄土真宗辞典)

大般涅槃

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:涅槃

ねはん/涅槃

苦しみが消滅した状態。覚りの境地。ⓈnirvāṇaⓅnibbānaⓉmya ngan las ’das pa。Ⓢnirvāṇaの音写語で泥洹ないおんなどともいい、滅度や寂滅と意訳される。また無為択滅と同義とされる。涅槃寂静として三法印の一つに数えられる。涅槃煩悩を滅し尽くした境地であり、『スッタニパータ』二六七偈に「涅槃を体得することが無上の幸福である」と説かれているように、仏道修行者の目指すべき到達点である。また涅槃は、煩悩の火が滅した状態、あるいは煩悩というたきぎ智慧の火によって焼き尽くされた状態に喩えられる。煩悩を滅するのは智慧の働きであるから、涅槃を得るためには智慧が必要である。この智慧は戒を守り禅定を実践することで獲得すべきもので、智慧によって心と煩悩つながりを断ち切ることが仏道実践の目的である。『俱舎論』一では、涅槃仏法の中において最も勝れた法であるとされ、また『同』一四には「帰依法とは、謂わく、涅槃に帰するなり」(正蔵二九・七六下)とあり、仏法帰依するとは涅槃帰依することとしている。涅槃には、般涅槃はつねはん有余涅槃・無余涅槃、また無住涅槃や本来自性清浄涅槃等の種類がある。有余涅槃・無余涅槃は、有余涅槃・無余依涅槃ともいわれる。有余涅槃とは煩悩を完全に滅した涅槃であり、無余涅槃とは有余涅槃に至った者が、さらに死によって身体的な苦からも脱した涅槃である。般涅槃とは、時に大般涅槃ともいわれ、完全な涅槃を意味する。これは「無余涅槃界において般涅槃す」などといわれるように、無余涅槃と同様の意味であり、いかなるものごとにも煩わされることのない寂静の境地であり、心身が輪廻から離れた完全な消滅である。本来自性清浄涅槃とは本来清浄涅槃などともいわれ真如を意味する。無住涅槃は不住涅槃などともいわれ、大乗仏教が理想とする涅槃である。これは菩薩の目指すべき涅槃であり、智慧によって煩悩を断ち切っているが、衆生を救う利他行の実践のために輪廻からは離れることのない涅槃である。この無住涅槃は「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」という考えと結びつくものであり、智慧慈悲を兼ね備えて、覚りの世界輪廻世界とを自由に行き来して救済活動をすることが、大乗仏教の理想であることを示すものである。


【資料】『成唯識論』一〇、『北本涅槃経』四


【参照項目】➡生死即涅槃成仏無余涅槃・有余涅槃般涅槃


【執筆者:石田一裕】