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「綺語」の版間の差分

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御開山は小部の『数名目・十悪』(『浄土真宗聖典全書』p985)で[[十悪]]を挙げられて、口業の四悪である綺語に、
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御開山は小部の『数名目・十悪』(『浄土真宗聖典全書』二 p985)で[[十悪]]を挙げられて、口業の四悪である綺語に、
 
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と左訓されて、和歌を詠むことや、言葉を美しく<kana>彩(いろど)</kana>ることは[[十悪]]中の綺語であるとされておられる。<br />
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と[[左訓]]されて、和歌を詠むことや、言葉を美しく<kana>彩(いろど)</kana>ることは[[十悪]]中の綺語であるとされておられる。このため技巧的な和歌ではなく庶民に親しまれていた[[今様]]で仏徳を[[和讃]]された。<br />
御開山の特徴として、和歌を詠まなかったということがいわれる。当時の知識人のあいだで流行した抒情的で技巧的な和歌ではなく、庶民に親しまれていた今様という形式で法義を和讃されたのもその意であろう。<br />
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御開山の特徴として、和歌を詠まなかったということがいわれる。当時の知識人のあいだで流行した抒情的で技巧的な和歌ではなく、庶民に親しまれていた[[今様]]という形式で[[法義]]を[[和讃]]されたのもその意であろう。<br />
 
近年、真宗教団では、「生かされているいのち」とか、「尊いいのち」とか「いのちがあなたを生きている」など耳に心地よい言葉が多すぎる。──いのちとひらがなで表現することによって、生物としての命(寿)と違う意味を持たせたいのだろうが、すでに手垢が付きすぎて社会派僧侶の平和や人権を骨頂する空虚なスローガンに成り下がっている──<br />
 
近年、真宗教団では、「生かされているいのち」とか、「尊いいのち」とか「いのちがあなたを生きている」など耳に心地よい言葉が多すぎる。──いのちとひらがなで表現することによって、生物としての命(寿)と違う意味を持たせたいのだろうが、すでに手垢が付きすぎて社会派僧侶の平和や人権を骨頂する空虚なスローガンに成り下がっている──<br />
未来の見えない派遣労働で働く若者や、リストカットを繰り返さざるをえない者や、病院のベッドに括られている認知障害(痴呆)の老人にも命はあるのである。おためごかしという言葉があるのだが、布教使が法話で、美しい耳に心地よい言葉を使い続けることは、本当のご法義との齟齬をきたすのかもしれない。それはまた綺語によって、聴者を「言葉の意味の奴隷」としてしまう虞(おそ)れがあるのである。<br />
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未来の見えない派遣労働で働く若者や、リストカットを繰り返さざるをえない者や、病院のベッドに括られている認知障害(痴呆)の老人にも命はあるのである。おためごかしという言葉があるのだが、[[布教使]]が法話で、美しい耳に心地よい言葉を使い続けることは、本当のご法義との齟齬をきたすのかもしれない。それはまた[[綺語]]によって、聴者を「言葉の意味の奴隷」としてしまう虞(おそ)れがあるのである。<br />
善導大師は、「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。心偏に常没の衆生を愍念す」([[観経疏 玄義分 (七祖)#諸仏大悲於苦者|玄義分 P.312]]) とされておられる。この大悲とは御開山によれば「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。」([[行巻#P--141|行巻 P.141]]) とされる易行である可聞可称の〈なんまんだぶ〉である。法然聖人が示して下さった選択本願の〈なんまんだぶ〉の大行である<br />
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善導大師は、「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。心偏(ひとえ)に常没の衆生を愍念す」([[観経疏 玄義分 (七祖)#諸仏大悲於苦者|玄義分 P.312]]) とされておられる。この[[大悲]]とは御開山によれば「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。」([[行巻#P--141|行巻 P.141]]) とされる[[易行]]である[[可聞可称]]の〈なんまんだぶ〉である。法然聖人が示して下さった[[選択本願]]の〈なんまんだぶ〉の大行である<br />
御開山は法然聖人に『選択本願念仏集』の書写を許され、その感慨を『教行証文類』の末尾で、
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御開山は法然聖人に『[[選択本願念仏集]]』の書写を許され、また[[真影]]を図画することを許され<ref>当時は、師が弟子に自己の肖像画を描くことを許可することは、法の継承者であることを[[印可]]する意味があったとされる。→[[JWP:頂相]]</ref>、その感慨を『[[教行証文類]]』の末尾で、
:真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」<ref>もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。</ref>の真文とを書かしめたまふ。([[化巻末#no118|化巻 P.472]])
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:真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」{{SHD|mk01|もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。}}の真文とを書かしめたまふ。([[化巻末#no118|化巻 P.472]])
とされ、その感慨を「これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。」([[化巻末#P--473|化巻 P.473]]) とされておられる。専念正業とは専ら〈なんまんだぶ〉を称える[[行業]]であり、それはまた『歎異抄』の著者が後序で御開山の言葉を追憶し、
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とされ、その感慨を「これ専念正業の徳なり、これ決定往生の<kana>徴(しるし)</kana>なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。」([[化巻末#P--473|化巻 P.473]]) とされておられる。専念正業とは専ら〈なんまんだぶ〉を称える[[行業]]であり、それはまた『歎異抄』の著者が後序で御開山の言葉を追憶し、
 
:「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」([[歎異抄#P--854|歎異抄 P.854]])
 
:「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」([[歎異抄#P--854|歎異抄 P.854]])
の「ただ念仏のみぞまことにておはします」である。ばんまんだぶこそが、まことの言葉であった。近頃の真宗の坊さんは、信心正因という[[名目]]に迷い「念仏成仏これ真宗」[[浄土和讃#no71|(*)]]という、門徒に〈なんまんだぶ〉を称えることのお勧めがほとんどないので、困ったものである。
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の「ただ念仏のみぞまことにておはします」である。なんまんだぶこそが、まことの言葉であった。近頃の真宗の坊さんは、信心正因という[[名目]]に迷い「念仏成仏これ真宗」[[浄土和讃#no71|(*)]]という、〈なんまんだぶ〉を称えることのお勧めが門徒にほとんどないので、困ったものである。
  
 
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2024年11月4日 (月) 15:46時点における最新版

きご

 無意味で無益な言葉。うわべを飾った不真実な言葉。 (往生礼讃 P.708)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は小部の『数名目・十悪』(『浄土真宗聖典全書』二 p985)で十悪を挙げられて、口業の四悪である綺語に、

ウタヲヨミ イロヘ コトバ ヲ イフ

左訓されて、和歌を詠むことや、言葉を美しく(いろど)ることは十悪中の綺語であるとされておられる。このため技巧的な和歌ではなく庶民に親しまれていた今様で仏徳を和讃された。
御開山の特徴として、和歌を詠まなかったということがいわれる。当時の知識人のあいだで流行した抒情的で技巧的な和歌ではなく、庶民に親しまれていた今様という形式で法義和讃されたのもその意であろう。
近年、真宗教団では、「生かされているいのち」とか、「尊いいのち」とか「いのちがあなたを生きている」など耳に心地よい言葉が多すぎる。──いのちとひらがなで表現することによって、生物としての命(寿)と違う意味を持たせたいのだろうが、すでに手垢が付きすぎて社会派僧侶の平和や人権を骨頂する空虚なスローガンに成り下がっている──
未来の見えない派遣労働で働く若者や、リストカットを繰り返さざるをえない者や、病院のベッドに括られている認知障害(痴呆)の老人にも命はあるのである。おためごかしという言葉があるのだが、布教使が法話で、美しい耳に心地よい言葉を使い続けることは、本当のご法義との齟齬をきたすのかもしれない。それはまた綺語によって、聴者を「言葉の意味の奴隷」としてしまう虞(おそ)れがあるのである。
善導大師は、「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。心偏(ひとえ)に常没の衆生を愍念す」(玄義分 P.312) とされておられる。この大悲とは御開山によれば「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。」(行巻 P.141) とされる易行である可聞可称の〈なんまんだぶ〉である。法然聖人が示して下さった選択本願の〈なんまんだぶ〉の大行である
御開山は法然聖人に『選択本願念仏集』の書写を許され、また真影を図画することを許され[1]、その感慨を『教行証文類』の末尾で、

真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」「隠/顕」
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。
の真文とを書かしめたまふ。(化巻 P.472)

とされ、その感慨を「これ専念正業の徳なり、これ決定往生の(しるし)なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。」(化巻 P.473) とされておられる。専念正業とは専ら〈なんまんだぶ〉を称える行業であり、それはまた『歎異抄』の著者が後序で御開山の言葉を追憶し、

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄 P.854)

の「ただ念仏のみぞまことにておはします」である。なんまんだぶこそが、まことの言葉であった。近頃の真宗の坊さんは、信心正因という名目に迷い「念仏成仏これ真宗」(*)という、〈なんまんだぶ〉を称えることのお勧めが門徒にほとんどないので、困ったものである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…


  1. 当時は、師が弟子に自己の肖像画を描くことを許可することは、法の継承者であることを印可する意味があったとされる。→JWP:頂相