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「汝若不能念」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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 「汝若不能念者 応称無量寿仏」(なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏を称すべし)
 
 「汝若不能念者 応称無量寿仏」(なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏を称すべし)
 ([[唯信鈔#P--1350|唯信鈔 P.1350]])
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『観経』「下品下生」段には、[[五逆]]・[[十悪]]を作った悪人について、
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:如此愚人 臨命終時 遇善知識 種種安慰 為説妙法 教令念仏。
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::かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。
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:此人苦逼 不遑念仏。
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::この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。
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:善友告言 '''汝若不能念'''者 応称無量寿仏。
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:如是 至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。
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::かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して'''南無阿弥陀仏'''と称せしむ。
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:称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪。
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::仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
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:命終之時 見金蓮華 猶如日輪 住其人前。
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::命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。
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:如一念頃 即得往生極楽世界。於蓮華中 満十二大劫 蓮華方開。
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::一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。([[観経#no30|観経 P.115]])
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仏教における[[業因]]とは衆生の清浄な[[身口意]]による仏道の修行によってさとりといふ果を得ることである。その意味では[[下品下生]]の〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉といふ、ただ口称の〔なんまんだぶ〕は仏教に於ける行とはいえないのであった。<br />
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しかして、いま仏とも法とも知らずして、善知識(よき人)の仰せに従い、死なんとする、苦に逼(せ)められて、口に称えられる念仏(なんまんだぶ)に拠って往生した、と『観経』の教説はいふ。これは衆生の身口意に拠らない[[阿弥陀仏]]の[[本願力]]に[[救済]]をあらわすのであった。<br />
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 「[[汝若不能念]]」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、[[不浄説法]]のもの、[[やまふ]]のくるしみにとぢられて、こころに弥陀を[[念じ]]たてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「[[応称無量寿仏]]」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
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といわれていた。「称名を本願と誓ひたまへる」[[称名正因]]であった。
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2020年8月17日 (月) 22:47時点における最新版

にょにゃくふのうねん

 「汝若不能念者 応称無量寿仏」(なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏を称すべし)  (唯信鈔 P.1350,唯文 P.716)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『観経』「下品下生」段には、五逆十悪を作った悪人について、

如此愚人 臨命終時 遇善知識 種種安慰 為説妙法 教令念仏。
かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。
此人苦逼 不遑念仏。
この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。
善友告言 汝若不能念者 応称無量寿仏。
善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。
如是 至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。
かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。
称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪。
仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終之時 見金蓮華 猶如日輪 住其人前。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。
如一念頃 即得往生極楽世界。於蓮華中 満十二大劫 蓮華方開。
一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。(観経 P.115)

とある。
仏教における業因とは衆生の清浄な身口意による仏道の修行によってさとりといふ果を得ることである。その意味では下品下生の〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉といふ、ただ口称の〔なんまんだぶ〕は仏教に於ける行とはいえないのであった。
しかして、いま仏とも法とも知らずして、善知識(よき人)の仰せに従い、死なんとする、苦に逼(せ)められて、口に称えられる念仏(なんまんだぶ)に拠って往生した、と『観経』の教説はいふ。これは衆生の身口意に拠らない阿弥陀仏本願力救済をあらわすのであった。
御開山は、それを、

 「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

といわれていた。「称名を本願と誓ひたまへる」称名正因であった。