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「本願ぼこり」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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悪人を救う阿弥陀仏の本願力が強いことをほこること。また、それにあまえて、自らの悪を慎むことのない造悪無碍の者のこと。戒を用いない浄土真宗に対する批判に、どうせわたしは凡夫ですからと開きなおること。
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 悪人を救う阿弥陀仏の[[本願力]]が強いことをほこること。また、それにあまえて、自らの悪を慎むことのない[[造悪無碍]]の者のこと。現代では、[[戒]]を用いない浄土真宗の僧侶・門徒への倫理的批判に対して、どうせわたしは凡夫ですからと開きなおることも本願ぼこりの一種である。凡夫とは「<kana>汝是凡夫心想羸劣(にょぜ-ぼんぶ-しんそう-るいれつ)</kana>(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」[[仏説_観無量寿経#P--93|(*)]]と、汝は凡夫であるという仏の側からの[[教誡]]である。このような凡夫という表現は、わたしの側でいう、どうせわたしは凡夫ですという開き直りの言葉とは違うのであった。「'''慚愧なき真宗は外道に堕する'''」といわれる所以である。<br>
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 浄土宗[[JDS:清浄華院|清浄華院]]第五世、[[JDS:向阿|向阿]]証賢(1265~1345)の『[[歸命本願抄]]』には、
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:本願にほこりてつみを心やすくおもはん人は、はじめは信心のあるににたりとも、のちにはたすけ給への心もなくなるべし。 よくよくよういあるべき事をや。
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などの用例があり、本願にほこりて罪を軽く思わん者は、後には[[無帰命安心|無帰命]]になるといわれている。ちなみに、蓮如上人の次女である[[見玉尼]](1448-1472)は、口べらしのため禅院の喝食として外へ出され、成人しては浄華院にいたが蓮如上人の吉崎建立の頃に本願寺に戻る([[御文章集成#見玉尼の往生]])。他力回向の信心を「たすけたまへと弥陀をたのむ」と表現した蓮如上人のご教化は、見玉尼を通しての浄華院流からの示唆があったのであろう。[[たすけたまへとおもへば|(*)]]<br>
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なお、『歎異抄』第13条では、造悪無碍のすがたとともに、「 本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。」と、本願を信じる正しいすがたとしても表現されている。この場合は自分では手がつけられない犯した罪の深さを内省するところから、他力をたのむ信心に言及したのであろう。「称仏六字 即嘆仏即懺悔(仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち懺悔するなり)」[[尊号真像銘文#no8|(*)]]である。
  
  
 
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2022年4月27日 (水) 10:59時点における最新版

 本願にあまえてつけあがること。(歎異抄 P.842)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 悪人を救う阿弥陀仏の本願力が強いことをほこること。また、それにあまえて、自らの悪を慎むことのない造悪無碍の者のこと。現代では、を用いない浄土真宗の僧侶・門徒への倫理的批判に対して、どうせわたしは凡夫ですからと開きなおることも本願ぼこりの一種である。凡夫とは「汝是凡夫心想羸劣(にょぜ-ぼんぶ-しんそう-るいれつ)(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」(*)と、汝は凡夫であるという仏の側からの教誡である。このような凡夫という表現は、わたしの側でいう、どうせわたしは凡夫ですという開き直りの言葉とは違うのであった。「慚愧なき真宗は外道に堕する」といわれる所以である。
 浄土宗清浄華院第五世、向阿証賢(1265~1345)の『歸命本願抄』には、

本願にほこりてつみを心やすくおもはん人は、はじめは信心のあるににたりとも、のちにはたすけ給への心もなくなるべし。 よくよくよういあるべき事をや。

などの用例があり、本願にほこりて罪を軽く思わん者は、後には無帰命になるといわれている。ちなみに、蓮如上人の次女である見玉尼(1448-1472)は、口べらしのため禅院の喝食として外へ出され、成人しては浄華院にいたが蓮如上人の吉崎建立の頃に本願寺に戻る(御文章集成#見玉尼の往生)。他力回向の信心を「たすけたまへと弥陀をたのむ」と表現した蓮如上人のご教化は、見玉尼を通しての浄華院流からの示唆があったのであろう。(*)
なお、『歎異抄』第13条では、造悪無碍のすがたとともに、「 本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。」と、本願を信じる正しいすがたとしても表現されている。この場合は自分では手がつけられない犯した罪の深さを内省するところから、他力をたのむ信心に言及したのであろう。「称仏六字 即嘆仏即懺悔(仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち懺悔するなり)」(*)である。