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「即得往生」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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そくとくおうじょう
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そくとく-おうじょう
  
 
 信心をいただくと同時に、<kana>正定聚(しょうじょうじゅ)</kana>の位につき定まることをいう。→[[正定聚]]。
 
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即得往生住不退転(そくとくおうじょう じゅふたいてん)
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 「すなはち往生を得、不退転に住せん」(信巻訓) ([[御文四#P--1162|御文章 P.1162]])。 →[[不退転]]
 
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 「すなはち往生を得、不退転に住せん」(信巻訓) ([[御文四#P--1162|御文章 P.1162]])
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:すべての人々は、その名号の[[いわれ]]を聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願う'''たちどころに往生すべき身に定まり'''、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる。
 
:すべての人々は、その名号の[[いわれ]]を聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願う'''たちどころに往生すべき身に定まり'''、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる。
  
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『唯信鈔文意』で、
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:「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。([[唯文#P--703|唯文 P.703]])
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と述べられ『一多証文』では、
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:「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬな<span id="P--679"></span>り。また「即」はつくといふ[[#tuku|↓]]、その位に定まりつくといふことばなり。{{DotUL|「得」はうべきことをえたりといふ}}。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに[[摂取して捨てたまはざるなり]]。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、<kana>[[正定聚]](ワウジヤウスベキミトサダマルナリ)</kana>の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。([[一多#soku|一多 P.678]])
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と、往生すべき身と定まること(正定聚)を、「得はえしむといふ、「往生」といふは浄土に生るといふなり」([[尊号真像銘文#P--656|尊号 P.656]])とされておられた。
  
次図は、第十八願の本願の文と成就の文との対照。聞其名号とは、本願招喚の勅命である〔なんまんだぶ〕を聞き称えることであり、それはまた名号のいわれを聞く[[仏願の生起本末]]を聞信する意である。
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次図は、[[第十八願]]の本願の文と成就の文との対照。本願文には「[[聞其名号…|聞其名号]]」の語は出ていないが、成就文に「[[聞其名号…|聞其名号]]」とあることによって、[[第十八願]]の「至心信楽欲生」の三心と〔なんまんだぶ〕の十念は、聞其名号によっておこさしめられるということがわかる。「聞其名号」とは、[[本願招喚の勅命]]である〔なんまんだぶ〕を聞き称えることであり、それはまた名号のいわれを聞く[[仏願の生起本末]]を[[聞信]]することである。
  
 
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2018年6月5日 (火) 08:49時点における最新版

そくとく-おうじょう

 信心をいただくと同時に、正定聚(しょうじょうじゅ)の位につき定まることをいう。→正定聚

 即得往生住不退転(そくとくおうじょう-じゅふたいてん)

 「すなはち往生を得、不退転に住せん」(信巻訓) (御文章 P.1162)。 →不退転

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

本願成就の文。

即得往生の語は、阿弥陀如来の第十八願が成就していることを、釈尊が衆生に告げられる文であるから「本願成就文」と呼ぶ。ここでの即得の語は、即時に浄土への往生を得るのではなく、阿弥陀如来より廻向された信心の利益として必ず往生が決定(けつじょう)していることをあらわす文であると御開山はみられた。これを不退転とも阿毘跋致ともいい、正定聚に入るという。

漢文:

諸有衆生(しょう-しゅじょう) 聞其名号(もんご-みょうごう) 信心歓喜(しんじん-かんぎ) 乃至一念(ないし-いちねん)。 至心回向(ししん-えこう)。 願生彼国(がんしょう-ひこく) 即得往生(そくとく-おうじょう) 住不退転(じゅう-ふたいてん)。 唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃく-ひほうしょうぼう)

読み下し:

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。 かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

現代語:

すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる。

『唯信鈔文意』で、

「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。(唯文 P.703)

と述べられ『一多証文』では、

「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚(ワウジヤウスベキミトサダマルナリ)の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。(一多 P.678)

と、往生すべき身と定まること(正定聚)を、「得はえしむといふ、「往生」といふは浄土に生るといふなり」(尊号 P.656)とされておられた。

次図は、第十八願の本願の文と成就の文との対照。本願文には「聞其名号」の語は出ていないが、成就文に「聞其名号」とあることによって、第十八願の「至心信楽欲生」の三心と〔なんまんだぶ〕の十念は、聞其名号によっておこさしめられるということがわかる。「聞其名号」とは、本願招喚の勅命である〔なんまんだぶ〕を聞き称えることであり、それはまた名号のいわれを聞く仏願の生起本末聞信することである。

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