「義なきを義とす」の版間の差分
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また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。 | また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。 | ||
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− | : | + | :如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者の[[はからひ]]は自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 ([[消息上#P--746|御消息 P.746]]) |
とあり、第19通にも、 | とあり、第19通にも、 | ||
:また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。 かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。 ([[消息上#P--776|御消息 P.776]]) | :また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。 かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。 ([[消息上#P--776|御消息 P.776]]) | ||
とあり、第20通には、 | とあり、第20通には、 | ||
− | : | + | : また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫の[[はからひ]]にあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如 来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐々謹言。 ([[消息上#P--779|御消息 P.779]]) |
などとある。 | などとある。 | ||
『尊号真像銘文』にも、 | 『尊号真像銘文』にも、 |
2024年9月23日 (月) 09:30時点における最新版
ぎなきを-ぎとす
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。 三経 P.629 二種 P.723 消息 P.746 消息 P.768 消息 P.776 消息 P.777 消息 P.779 消息 P.781 消息 P.798 正像 P.622
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『御消息』第6通には、
- 如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (御消息 P.746)
とあり、第19通にも、
- また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。 かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。 (御消息 P.776)
とあり、第20通には、
- また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如 来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐々謹言。 (御消息 P.779)
などとある。 『尊号真像銘文』にも、
- 「他力には義のなきをもつて義とす」と、本師聖人(源空)の仰せごとなり。「義」といふは行者のおのおののはからふこころなり。このゆゑにおのおののはからふこころをもたるほどをば自力といふなり。よくよくこの自力のやうをこころうべしとなり。 (尊号 P.673)
などとあるように「義なきを義とす」は、法然聖人が用いられていた語であるとされている。承元の法難(1207)で法然聖人と別離してから50年程の時を経ているのだが御開山の耳底に残っていた言葉であった。
晩年の法語を記述した『歎異抄』二条には、
- 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄 P.832)
と「別の子細なきなり」と、あるように、本願力による「念仏成仏これ真宗」というご法義であり、あれこれ「義」を論ずる教法ではなかった。
- →仰信
無義以義
歎異鈔10条に、
- 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
とあるのだが、この言葉の前には「他力」という主語が付加されるべきある。
利他→主体が弥陀。 他利→主体が衆生。よって教法に対して自己の領解を述べるときは、義なきを義とするの意。